油壺湾は、荒井浜や旧京急油壺マリンパークなどのある半島の南に位置する、三浦半島南西部の相模湾に面した入り江です。油壺周辺はリアス海岸特有の複雑な地形をしていて、湾の入り口で、名向崎を挟んで南側にある諸磯湾と合流します。
油壺湾は、湾内で入り江が大きく折れ曲がっていることと、海岸のすぐ側まで崖が迫っているため、暴風や波浪を避けるための港として利用されてきました。現在でも、湾の最奥は、ヨットハーバーなどの穏やかな入り江をいかした施設に利用されています。
ただし、湾のまわりに平地はほとんどないため、浦賀湾のように港町として発展するようなことはありませんでした。
自然が造りだした景勝地である油壺湾は、「かながわの景勝50選」に選ばれています。複雑な地形をしているため、なかなか全体を見渡すということは難しいのですが、三浦市営の油壺駐車場近くから荒井浜に向かう道の途中に建つ、かながわの景勝50選「油壺湾」の石碑付近から見る景色は、油壺湾らしさをよく感じられます。
INDEX
ヨットハーバーなどがある小高い山に囲まれた天然の良港
油壺湾自体が景勝地であるのと同時に、油壺湾の入口にある荒井浜などは、富士山や夕日のビュースポットとしても優れています。
一方、油壺湾の最奥にある油壺ヨットクラブや三崎マリン付近は小高い山に囲まれているため、外洋への眺望はよくありません。天然の良港であることと引き換えに、湾の最奥からは富士山はほとんど見えず、夕日スポットとしても条件が良いとは言えません。
油壺の自然をいかした三崎臨海実験所や油壺験潮場
外洋の影響を受けにくく、比較的穏やかな油壺湾は、風待ち港やヨットハーバーとしての利用にとどまらず、海に関する研究や調査にも利用されてきました。
明治後期には帝国大学臨海実験所(通称、三崎臨海実験所)が三崎港の南にある北条湾から油壺湾に移転してきました。三崎臨海実験所の油壺湾への移転は、北条湾の施設が手狭になったということが大きな理由でしたが、結果的に、油壺の複雑な地形が数多くの新種や珍種の発見につながったと言います。
三崎臨海実験所は、日本最古の、そして、世界でも有数の歴史を持つ臨海実験所として、現役で使われています(現在の正式名称は、東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所)。
また、東京大学の三崎臨海実験所に隣接した場所には、国土交通省国土地理院の油壺験潮場が置かれています。験潮場は、土地の高さの基準を決めたり、地殻変動の監視や津波の検出などをするための施設です。油壺験潮場は、1894年(明治27年)に開設された、現存する験潮場としては日本で2番目に古い施設です。
このように、港町として発展していかなかった代わりに、油壺ならではの、豊かな自然環境をいかした施設を生むことにつながり、現在も静かな環境のなかに残っています。
また、油壺湾の周辺には関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)「油壺・入江のみち」(環境省・神奈川県)のハイキングコースが整備されていて、一般の人も気軽にこのような自然環境をたのしむことができます。
「油壺」の地名の由来となった新井城の戦い
天然の要害でもある油壺湾周辺には、戦国時代、相模三浦氏の三浦道寸(義同)・荒次郎(義意)父子の居城・新井城がありました。
伊豆や小田原などの西から徐々に勢力を拡大してきていた、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏に新井城を攻められた三浦道寸・荒次郎父子は、3年間の籠城の末敗れて、一族は滅びてしまいました。
このとき、相模三浦氏の一族やその家臣たちは油壺湾に投身して、水面が血で染まって油を流したようになったことが、「油壺」という地名の由来とされています(諸説あり)。