ビッドル広場は、野比海岸沿いを走る北下浦海岸通り(県道212号)の久里浜寄り(千駄ヶ崎寄り)の道端にある、小さな広場です。「ビッドル広場」の名前は、幕末の1846年(弘化3年)、ペリー提督による浦賀来航からさかのぼること7年前、アメリカ東インド艦隊司令長官・ビッドル(ビドル)提督率いる2隻の軍艦が、この沖合に停泊していたことに由来しています。
野比海岸公園などと同じように、地元のボランティア団体「水仙の会」によってビッドル広場にもスイセンが植栽されていて、北下浦海岸通りの別名「北下浦水仙ロード」の一角を成しています。ビッドル広場は歩道と海岸の間の3mほどの空間ですが、毎年1月から2月にかけては、スイセンの花で埋めつくされます。
ビッドル提督の失敗から学んだペリー提督
1846年(弘化3年)、アメリカ東インド艦隊司令長官・ビッドル提督は、コロンバス号とビンセンス号の2隻の軍艦を率いて、浦賀に現われました。ビッドル提督の目的はペリー提督と同じで、日本にアメリカとの通商を求めるために来航しました。その際、ビッドル提督は、野比の沖合数kmの場所に9日間停泊していたと言われています。
ビッドル提督は、浦賀に入港しましたが、上陸は許されませんでした。当時の江戸幕府は、いわゆる鎖国政策をとっていたため、浦賀奉行所からビッドル提督への返答は、アメリカ側からの要求を拒否するというものでした。この回答を受けて、ビッドル提督は浦賀を後にします。
ビッドル提督の浦賀来航の7年後、今度はペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀に現われます。ペリー提督はビッドル提督とは異なり、交渉は幕府の高官のみとしか行わないと主張したり、江戸湾の奥まで北上する構えを見せるなど、終始、強硬な態度を見せました。帆船だけのビッドル艦隊とは異なり、ペリー艦隊には黒船と呼ばれた2隻の蒸気船が含まれていたことも、幕府側の恐怖心を増幅させたに違いありません。
結果的にこのペリーの交渉術は功を奏し、翌年の1854年(嘉永7年)、日本はアメリカと日米和親条約を結ぶことになり、日本は開国へと向かって行くことになります。ペリー提督の交渉の成功は、ビッドル提督の失敗に学び、江戸幕府攻略の策を研究した結果とされています。
江戸幕府もまた、戦闘にこそならなかったものの、外国との武力の差は歴然たる事実であると感じたに違いなく、和洋折衷の警備船を建造するなど、ビッドル提督の来航から学んだことはゼロではなかったようです。
しかし、200年以上続いている鎖国の中では、当時の日本が置かれた状況を正確に理解できる者など多くいるはずもありません。あるいは、ビッドル提督をたまたま場当たり的な外交で追い払うことができたことで、外国を甘く見ていたのかもしれません。
ともかく、この後の7年間は、同じ7年間でも、ペリーが周到に準備した7年間と、江戸幕府が歩んだ7年間とでは、スピード感やその充実度はまったく違ったものだったと言えるでしょう。