大勝利山は、横須賀市の中心市街地である下町地区(横須賀中央駅周辺の、若松町や大滝町などの総称)でもっとも標高が高い山です。
とは言え、標高はおよそ60mほどしかなく、今となっては近隣にいくつか建つタワーマンションのほうが、はるかに高くそびえています。このあたりの丘には「小屋の台」という別称もあり、「山」というよりは「丘」や「台地」と表現したほうがしっくりきます。
また、大勝利山は、大滝町の徳寿院・豊川稲荷横須賀別院や緑が丘の良長院の裏山にあたることから、それぞれの寺の山号である「豊川山」や「龍谷山」と呼ぶこともできます。
「大勝利山」という名前は、日本が日清戦争に勝利したことに由来します。その頂上には、かつて、日清戦争の戦没者を祀る忠魂祠堂も建っていました。なにか縁起が良さそうな響きのある山ですが、鎮魂のための山でもありました。
大勝利山については、1908年(明治41年)に軍港堂より発行された「横須賀案内記」と公正新聞社より発行された「三浦繁昌記」、1915年(大正4年)に横須賀市が発行した「横須賀案内記」(軍港堂版とは別物)など、明治・大正期の横須賀のガイドブックでは必ずと言って良いほど名所・名勝として紹介されていて、戦前は横須賀の定番観光スポットの一つだったようです。
INDEX
日清戦争にまつわる「大勝利山」の名前の由来
「大勝利山」という名前には、いずれも日清戦争(1894年(明治27年)7月~1895年(明治28年)4月)に由来する、二通りの説があります。年代から考えれば前者が元になったと考えるのが自然でしょう。
一つは、大勝利山の山腹に建つ徳寿院・豊川稲荷横須賀別院境内の「神武天皇遥拝所」碑(1904年(明治37年)建立)に刻まれている内容で、この山を開拓した坂東善兵衛氏が日清戦争の勝利を記念して1895年(明治28年)に名付けたというものです。
もう一つは、1915年(大正4年)発行の横須賀市版「横須賀案内記」に記載されている内容で、頂上に日清戦争の戦没者を祀る忠魂祠堂があることに由来すると言うものです。
大勝利山の横須賀忠魂祠堂

大勝利山の忠魂祠堂は、1925年(大正14年)に永田是治氏が発行した「現代の横須賀」という書籍によれば、1899年(明治32年)に浄土宗の僧侶らによって、足柄下郡蘆子村(現在の小田原市の一部)にあった天栄寺を移して建立されたものだと言います。
1902年(明治35年)に浄土教報社より発行された「浄土宗寺院名鑑」には、ともに三浦郡横須賀町山王(現在の横須賀市緑が丘あたりで、大勝利山の所在地でもあります)に所在する「天栄寺」という寺院と「横須賀忠魂祠堂」の記載があります。このころ、浄土宗では、戦没者を慰霊するため、軍都などに忠魂祠堂を建立していたようで、同書によれば、横須賀の他、東京や大阪、名古屋、広島、小倉などにも同様の施設がありました。
この大勝利山の忠魂祠堂境内には、1900年(明治33年)に現在の中国で起きた義和団の乱(北清事変)での殉難者を祀る「北京籠城軍艦愛宕戦死者碑」も建っていたと言います。
しかし、忠魂祠堂は1923年(大正12年)に発生した関東大震災で大きな被害を受けたため、昭和前期に、光心寺(現在の横須賀市衣笠栄町)境内に移されて、再建されました(光心寺は楠ヶ浦町(現在の米海軍横須賀基地内)にありましたが、昭和初期に海軍用地となったため、衣笠に移転しています)。
同様に、忠魂祠堂境内にあった「北京籠城軍艦愛宕戦死者碑」も、馬門山墓地(現在の横須賀市根岸町)に移設されました。
このため、現在の大勝利山には、忠魂祠堂や天栄寺の施設は残っていません。
また、大勝利山には良長院が管理していた金刀比羅神社がありましたが、こちらも随分前に見られなくなっています。
「大勝利山」の別名とも言える「小屋の台」という名前については、前述の横須賀市版「横須賀案内記」や「現代の横須賀」に、山上に茶菓子を提供する茅葺きの屋根の小屋があったことに由来するという説や、もっと古くは「古谷の台」と呼ばれていたことなどが紹介されています。
旧横須賀村と旧中里村・深田村を結ぶ2つの尾根道

大勝利山には、大きく2つの道が通っています。
どちらも、いわゆる「山道」ではなく、全区間舗装された道か、階段・石段です。
一つは、かつての浦賀道(東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)の一部です。汐入小学校裏から坂道を登って、緑ヶ丘女子中学校・高等学校と諏訪大神社や聖ヨゼフ病院方面との分岐のあるあたりから、上町のうぐいす坂あたりまでが大勝利山です。
もう一つもほとんど旧浦賀道と並行していて、良長院の山門前から左手方面に登って行き、上町方面に抜けるルートです。こちらは途中で、三笠ビル商店街(三笠通り)から徳寿院・豊川稲荷横須賀別院を経由して大勝利山頂上付近に直登するルートと合流します。
この合流地点には「大勝利山」と刻まれた標識が建っていますが、ここが山頂(最高地点)というわけではありません。



山の西側を通る前者では汐入方面の谷戸のまちなみが、東側を通る後者では横須賀イチの繁華街である下町地区の眺望が見られます。わずか数十メートルしか離れていない山の両側でまったく異なる風景が広がっていますが、どちらも横須賀らしい風景と言えます。


これらはいずれも、旧横須賀村の汐入・汐留周辺や諏訪・山王周辺(現在の汐入町・本町・緑が丘)と旧中里村・深田村方面(現在の上町・深田台)を尾根道で結ぶルートで、現在の下町地区が埋め立てによって形成されるまで、これらの村々の往来は大勝利山を経由するのが一般的でした。(埋め立て前は現在の横須賀中央大通りあたりが海岸線で、海に突き出た小さな岬にあった徳寿院・豊川稲荷横須賀別院の下にトンネルが掘られ、かろうじて行き来できるような、不便な土地でした)
かつては浦賀道南部の交通の要衝だった大勝利山
浦賀道では、この大勝利山も難所の一つでしたが、これより北側(東海道方面)の十三峠~がらめき間(逸見と追浜の間の丘陵地)はさらに険しかったため、横須賀村と金沢・町屋村(現在の横浜市金沢区町屋町、海の公園南口駅の近く)の間は海路を利用する人も多かったようです。
浦賀からやって来て、そのまま陸路で北上する人は内陸の丘陵地に続く西側ルートへ、海路を利用する人は東側ルートで横須賀下町に下る、と言ったように、大勝利山は浦賀道南部の重要な分岐点でもあったのでしょう。


明治から昭和にかけて、国道や鉄道がトンネルを使って三浦半島を貫くようになると、大勝利山の浦賀道は幹線としての役割を終え、現在の尾根道は地域の生活道路として使われています。
「大勝利山」の標識近くからは、京急線の横須賀中央駅を出て、大勝利山の下を貫くトンネルに入って行く電車を見下ろすことができます。ただ駅を利用しているだけでは気づきにくいですが、横須賀中央駅が谷間に位置していることを実感できる場所でもあります。

大勝利山周辺の見どころ
緑が丘・本町・汐入町方面





下町・上町方面





