東叶神社の社伝によれば、「叶神社」は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての僧・文覚が源氏再興を願い、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられています。壇ノ浦の戦いで平家が滅び、この祈願が成就したことから、1186年(文治2年)に「叶明神社」(明治維新後に「叶神社」と改称)と社名を名付けたと言います。
また、江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、東叶神社は、江戸時代初期の正保元年(1644年)に、「叶大明神」(現在の「西叶神社」)を勧請して、牛頭天王、船玉明神を合祀して創建されたことが記されています。
主祭神 | 応神天皇(誉田別命) |
旧社格等 | 旧村社 |
創建 | 1181年(養和元年) または、1644年(正保元年) |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 2月節分 節分祭 2月初午 初午祭 2月17日 祈年祭 5月5日 蘇鉄まつり 5月17日 東照宮祭 6月30日 大祓式 9月15日に近い土・日曜日 宵宮祭・例大祭 11月23日 新嘗祭 12月31日 大祓式 |
東叶神社の神輿は、正徳2年(1712年)の銘があるため、江戸時代かそれ以前の作とみられています。非常に精巧な彫刻や金具で装飾されていて、大きさも神奈川県内トップクラスの神輿とされています。全容を見ることができる機会は多くありませんが、拝殿横の神輿庫に納められている姿はいつでも見ることができます。
INDEX
浦賀の東西二つの叶神社
なぜ、浦賀に同じ名前が付いた2つの「叶神社」があるのか、同じタイミングで同時に建立された説や、浦賀が東浦賀と西浦賀の2つの村に分かれた際に、西叶神社(当時の叶大明神)を勧請して東叶神社が建立されたとする説など、その由緒については諸説あります。
事実がどうであれ、現在、浦賀には東西に2つの「叶神社」が鎮座していますので、それぞれを単に「叶神社」と言うこともありますし、西浦賀にある叶神社(西叶神社)と区別するために、東叶神社は「東浦賀の叶神社」「東岸 叶神社」と言ったりもします。
東叶神社と西叶神社の近くにはそれぞれ浦賀の渡しの渡船場があり、浦賀湾を渡船でショートカットすることができます。浦賀湾に沿って迂回すると、徒歩で30分以上かかるところ、渡船では約3分で結んでいます。(渡船の待ち時間は含みません。バス利用でも待ち時間や浦賀駅で必ず乗り継ぎが必要なため、所要時間は30分程度かかります)
源頼朝奉納の伊豆の蘇鉄
東叶神社の拝殿へと上がる石段の途中には、源頼朝が奉納したと言う蘇鉄が植栽されています。この蘇鉄は、頼朝が流人時代を過ごした伊豆の地より移植されたものと伝えられています。
東叶神社を創建した文覚は、流人時代の源頼朝と親しくしていて、頼朝に平家討伐を促したとも言われています。
徳川家康直轄の国際貿易港として栄えた浦賀港
東叶神社が面している浦賀湾は山に囲まれた細長い入り江になっていて、古くから東京湾(江戸湾)入口近くの天然の良港として栄えていました。
徳川家康が江戸城に入り、浦賀を含めた三浦半島も領地として与えられてからは、浦賀は外国との貿易港としても賑わいを見せるようになっていきました。家康の外交顧問となった、イギリス人(イングランド人)・三浦按針(ウィリアム・アダムス)の手腕もあり、ともに当時スペイン領だったマニラ(現在のフィリピン)とメキシコの太平洋を横断する商船の寄港地としての誘致に成功するなど、江戸時代初期の浦賀は東日本随一の国際貿易港として栄えました。
しかし、徳川家康が死没すると、対外政策が一変し、外国との貿易が長崎のみに制限されるなど日本は鎖国に向かい、浦賀の国際貿易港としての繁栄は長く続くものとはなりませんでした。
そんな浦賀も、幕末に江戸湾への通商や通交を求める外国船の往来が増えてくると、再び脚光を浴びるようになっていきます。
以下のリンク先からその他の【三浦按針ゆかりの地】もご覧ください
東叶神社裏山に伝わる勝海舟断食修行の地
ペリーの浦賀への最初の来航から7年後、江戸時代末期の1860年(万延元年)に、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに遣米使節団が派遣されました。
このとき、正使が乗艦するアメリカ海軍「ポーハタン号」の随伴艦として、幕府海軍の軍艦「咸臨丸」も浦賀からアメリカへ向けて出航しました。
このとき、実務的な責任者として咸臨丸に乗艦したのが、勝海舟でした。勝海舟は、1855年(安政2年)に幕府が設立した長崎海軍伝習所の第一期生として、オランダ海軍の講師から航海術などを学んでいました。
勝海舟は、咸臨丸での渡米前に、本殿(奥の院)が祀られている東叶神社の裏山で断食修行をしたと伝えられています。太平洋横断とアメリカ視察を、命がけで臨もうとした海舟の決意が伝わるエピソードです。現在、海舟が断食修行したとされる場所には、昭和期に建てられた記念碑が残っています。
また、東叶神社には、勝海舟が断食修行の際に使用されたとされる井戸が残る他、修行の際に着用した法衣が保存されています。
浦賀湾を挟んで東叶神社の対岸にある愛宕山公園には、日米修好通商条約の締結100年を記念して建立された咸臨丸出航の碑が建っています。また、浦賀ドック周辺では、毎年、咸臨丸フェスティバルが開催されています。
縁結びのパワースポット 恵仁志坂&産霊坂
東叶神社の拝殿から、本殿(奥の院)や勝海舟が断食修行をした場所のある裏山へ行くためには、二つの坂を登る必要があります。それぞれ、恵仁志坂(えにしざか)と産霊坂(むすびざか)と言い、坂に下には道標が建っています。
えにし(縁)があって、むす(結)ばれる、と言うことから、東叶神社には縁結びのご利益があるとされてきました。
平成に入ってからは、対岸の西叶神社で授かった勾玉を、東叶神社のお守り袋に納めて完成させる御守りに、恋愛などの良縁に恵まれるご利益があるということで、新たな人気パワーアイテムになっています。なお、お参りする順番によって、ご利益に違いはありません。
後北条氏の浦賀城があった明神山
東叶神社はかつて「叶明神社」と称されていたことから、本殿(奥の院)が祀られている裏山は、正式には明神山と言います。明神山は、戦国時代には、この地を治めていた後北条氏が水軍の出城「浦賀城」としていた場所でもあります。
現在は常緑樹の宝庫になっていて、「叶神社の社叢林」として神奈川県の天然記念物に指定されています。
明神山の山頂には、本殿(奥の院)の他、境内社の東照宮(御祭神は徳川家康で、1689年(元禄2年)の勧請)と神明社(御祭神は天照皇大神で、1505年(永正2年)の勧請)が鎮座しています。これらはいずれも、1981年(昭和56年)に、叶神社創建八百年を記念して再建されたものです。
また、浦賀の海を見渡せる高台には、住友重機械工業株式会社の前身である浦賀船渠(通称:浦賀ドック)によって1920年(大正9年)に建立された招魂塔が建っていて、不慮の事故や戦争で亡くなった会社関係者の御霊が祀られています。
本殿(奥の院)
東照宮
神明社
住友重機殉職者慰霊塔
厳島神社(身代り弁天)
東叶神社の社務所の奥に岩窟があり、厳島神社(身代り弁天)が鎮座しています。ここに祀られている弁天様を信仰された人々は、海上での遭難や交通事故、病気などの危難に際して、弁天様が身代わりとなって守ってくれたことから、あつい信仰を集めてきました。
また、厳島神社(身代り弁天)には、かつて、東叶神社の別当寺(神社を管理するための寺院)だった耀真山永神寺の本尊だったと伝わる不動様の像も祀られています。