浄土寺は、江戸幕府成立前後に徳川家康の外交顧問として活躍した三浦按針(ウィリアム・アダムス)の菩提寺だった寺院です。そのため、三浦按針の念持仏と伝わる銅造観音菩薩立像や、按針が朱印船貿易で東南アジアから持ち帰ったと伝えられる貝葉経(紙のない時代に植物の葉に刻まれた経文)など、按針ゆかりの品が伝わっています。
また、浄土寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将・畠山重忠が建立したと伝わる、歴史ある寺院でもあります。現在の本堂は江戸時代中期の1712年(正徳2年)に再建されたものですが、築300年以上の歴史を持ち、横須賀市内でも最も古い木造建築の一つとされています。
山号 | 涛江山 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 不詳(平安時代末期~鎌倉時代初期) |
開山 | 不詳 |
開基 | 畠山重忠 |
浄土寺では、毎年春に「按針忌法要」、秋に「按針フェスタ」といった、三浦按針を偲ぶとともに功績を伝えるイベントも開催されています。「按針フェスタ」では、例年、浄土寺に特設ステージが設けられて、地元にゆかりのあるアーテストや団体等によって音楽などのパフォーマンスが催されます。
INDEX
日本の歴史上唯一外国人が領主となって治めた逸見村
浄土寺のある逸見エリア(旧三浦郡逸見村)は、江戸時代初期に、日本の歴史上唯一外国人が領主となって治めた土地です。領主の三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、オランダ・ロッテルダムから極東を目指す航海で日本に漂着し、砲術や造船術などの自らが持つ西洋文明の知識を伝えることで徳川家康の信任を得て、旗本に取り立てられるまでになりました。
プロテスタントを信仰していたイギリス人(イングランド人)の三浦按針は、日本に来た当初、すでに日本で布教活動をしていたカトリックのイエズス会の宣教師たちに弾圧されることになりましたが、家康がこれを取り合わなかったため、按針に直接被害が及ぶことはありませんでした。
三浦按針は、帰国を願い出ていたそうですが、それがかなうことはありませんでした。本望ではなかったのでしょうけれど、徳川家康の外交顧問として活躍を見せるなか、日本人の妻をもらい、子どもをもうけるうちに、日本に骨を埋める覚悟もできていったのではないでしょうか。
三浦按針が念持仏として観音像を持ち歩いていたという逸話は、まさにそのような思いが表われている話です。徳川家康による禁教政策の影響もあったのかもしれませんが、おそらく、家康や江戸幕府に強制されていたというわけでもないでしょう。
逸見に所領を与えられた後も、キリスト教の信仰を完全にやめたわけではなかったようですが、日本の宗教を拒否することもせず、仏教にも接し、地域や日本という国に溶け込もうと努力したのではないでしょうか。
だからこそ、彼の死から400年以上たった現在まで、三浦按針の地元・逸見の人たちに愛され続けているのでしょう。
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「日米友好の証」として返還された浄土寺の梵鐘
浄土寺の境内には、本来吊るされているべき鐘楼とは違う場所に安置されている梵鐘があります。この鐘は、江戸時代中期の1747年(延享4年)に、徳川家ゆかりの池上本門寺や護国寺の梵鐘も手がけた名工・木村将監安成により鋳造されたものです。
このように由緒ある浄土寺の梵鐘でしたが、第二次世界大戦末期に、金属類回収令によって旧日本軍に供出されてしまいました。しかし、武器等への再利用はされないまま、終戦後、米軍によって戦利品としてアメリカのアトランタ市に持ち出されました。
しばらくはアトランタ市の公園に置かれていたとのことですが、現地の日系人女性が梵鐘に刻まれた文字を読み解き、横須賀の浄土寺という寺の鐘であることが分かったそうです。
その後、アトランタ市長や日米ロータリークラブなどの尽力もあり、日米修好100周年記念として、浄土寺の梵鐘は再び太平洋を渡り、1961年(昭和36年)に返還されました。
この梵鐘は、時を告げる役割ではなく、「日米友好の証」として、現在も浄土寺で大切に保管されています。