観音埼灯台は日本初の洋式灯台として建てられ、1869年(明治2年)に初点灯しました。起工日の11月1日が、日本の灯台記念日となっています。
1866年(慶応2年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約(改税条約)によって江戸幕府が建設を約束した8ヶ所の灯台のなかで、観音埼灯台がもっとも早く点灯しました。
観音埼灯台は、今も昔も東京湾の海上交通の要所である、浦賀水道の道しるべとして建てられました。観音埼灯台の完成以前は和式灯台である燈明堂がその役割を担ってきましたが、燈明堂は観音埼灯台の完成後に廃止されています。
初代の灯台はレンガ造りで、江戸幕府からの依頼を受けたフランス人技師ヴェルニーが部下である灯台技師ルイ・フェリックス・フロランに命じて、設計・建造されました。観音埼灯台に使われたレンガは、ヴェルニーが首長を務めた横須賀製鉄所で造られました。
この初代の灯台は地震の被害にあったため2代目が建設されましたが、そのおよそ半年後に関東大震災で崩壊してしまいました。
現在の観音埼灯台はコンクリート造りで、3代目です。この白亜の美しい灯台は、1998年(平成10年)に「日本の灯台50選」に選出されています。
INDEX
観音埼灯台建設の経緯
ペリー来航がきっかけとなり、1854年(嘉永7年)に日米和親条約が結ばれると、日本は鎖国を終えて、下田と箱館(函館)を開港しました。
さらに、1858年(安政5年)の日米修好通商条約では、開港場に神奈川(横浜)・長崎・新潟・江戸(東京)・兵庫(神戸)が加わりました。横浜と上海や香港のあいだなどに定期航路が設けられるようになり、日本近海での外国船の航行が増えてくるようになりました。
当時の日本には、浦賀の燈明堂のような和式灯台はありましたが、これらは近海を航行する漁船や輸送船のためのものであり、外洋を航行する大型船には機能しないものでした。
篝火や油を燃やした火を光源とする和式灯台の明かりが届く距離が10km以下なのに対して、レンズを光源とする洋式灯台は20km以上に及びました。
このため、外国船から見た日本の海は、暗く危険な海と恐れられていました。
このような背景から、1866年(慶応2年)に江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約(改税条約)では、4ヶ国からの要望によって、開港場に出入りする船舶の安全を確保するための灯台を設置することが取り決められました。
この条約により、観音崎をはじめ、剱崎、野島崎など、外国船による定期航路がおかれた太平洋沿岸を中心に8ヵ所の灯台を整備することになります。
このなかで観音埼灯台がいちばん最初に完成し、点灯を開始することになります。
全国に16か所しかない登れる灯台の一つ
観音埼灯台は、灯台の内部を見学することができる参観灯台となっているため、上部まで登ることができます。登れる灯台は全国に16か所しかありません。灯台の上部は展望台というわけではありませんので、狭く多少のスリルがありますが、これほど高い場所から目の前に浦賀水道を望むことができるのは観音埼灯台ならではの体験です。
また、灯台には灯台資料展示室が併設されていて、観音埼灯台の歴史や灯台の仕組みなどを学ぶことができます。
なお、観音埼灯台は1989年(平成元年)に無人化されたため、灯台としての業務は遠隔で行われています。
観音崎周辺の見どころ
灯台周辺は県立観音崎公園として整備されています。神奈川県最大の県立公園であり、豊かな自然や戦争の遺産などがのこされています。