見桃寺は、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)・源頼朝が三崎に設けた三御所の一つ「桃の御所」跡に建つ寺院です。「桃の御所」の名は、この地に多数の桃の木があったことに由来します。
このあたりは相模湾に面した風光明媚な場所で、ここから数分歩いた場所にある歌舞島でも、頼朝や鎌倉幕府の歴代将軍家が宴を開いたという記録が残っています。
また、見桃寺の墓地には、江戸時代に徳川水軍の将として活躍した、向井将監一族の墓があります。江戸時代の三崎は、江戸湾(東京湾)を防備するために徳川水軍の拠点が置かれ、それはやがて三崎奉行所の開設へとつながっていきました。
見桃寺は、三浦三十三観音霊場・第2番(聖観世音菩薩)、三浦七福神・布袋尊(桃林布袋尊)の札所になっています。
山号 | 紫陽山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 釈迦如来 |
創建 | 1613年(慶長18年) |
開山 | 白室玄虎 |
開基 | 向井正綱 |
三崎三御所は、源頼朝をもてなすための別荘として設けられました。「桃の御所」以外の二つは、現在の本瑞寺に「桜の御所」が、現在の大椿寺に「椿の御所」が設けられました。
三崎三御所は、「三崎山荘」と呼ばれることがある他、それぞれに花の名が付いていることから「花の三御所」などと表現されることもあります。
源頼朝は三崎を好み、何度も来遊しました。その際、この地を治めていた三浦氏の当主・三浦義澄やその一族が、飲食を振舞ったり、武芸を披露したりしたと伝わります。
INDEX
見桃寺は北原白秋の代表作「城ヶ島の雨」誕生の地
明治後期から昭和前期に活躍した詩人・北原白秋は、椿の御所跡の大椿寺にほど近い向ヶ崎・異人館に住んだ後、妻と見桃寺の一室に引っ越してきました。白秋の代表作「城ヶ島の雨」は、見桃寺での滞在中に書かれました。
見桃寺の境内に建つ北原白秋の歌碑は、1941年(昭和16年)11月2日に除幕された、白秋の第1号の歌碑でした。そして、白秋自らが出席して除幕した、最初で最後の歌碑でもあります。
徳川水軍の「三崎四人衆」として活躍した向井将監一族の墓
見桃寺を開いたのは、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将・向井正綱(政綱)です。正綱は、父・正重より甲斐の武田水軍の将として家督を継ぎましたが、主君の武田勝頼が滅亡すると、今度は徳川水軍として徳川家康に仕えるようになりました。
徳川家康が関東に移ってくると、向井正綱もまた、家康の直轄地となった三浦半島や江戸湾の海防の要とも言える三崎に移ってきました。このとき、三崎四人衆や徳川御船手四人衆などと呼ばれた、徳川水軍の将、小浜氏、間宮氏、千賀氏も、三崎へ移り住んでいます。
向井正綱の子・忠勝もまた徳川将軍家に仕え、向井将監忠勝以降、向井氏の当主は代々「将監」の名を襲名しました。忠勝は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の命を受けて、江戸幕府史上最大とされる徳川将軍家のための御座船「安宅丸」を建造したことでも知られています。
向井忠勝は、徳川家康の外交顧問として活躍したイギリス人(イングランド人)三浦按針(ウィリアム・アダムス)とも交流があったと見られることから、なんらかのかたちで按針からも造船技術を習得していたものと考えられます。
見桃寺の墓所には、向井正綱・忠勝父子をはじめとした向井一族の墓があります。向井一族の墓は、2013年に「向井将監一族石塔群」として、三浦市の指定重要文化財に指定されています。
桃の御所以外の源頼朝の三崎の三御所
源頼朝は、三浦半島では、三崎以外に葉山の森戸大明神(森戸神社)があるあたりにも別荘を設けました。