木曽義高(源義高)は、平安時代後期に活躍した武将・木曽義仲(源義仲)の嫡男です。別名「清水冠者」とも呼ばれています。「冠者(かじゃ/かんじゃ)」とは、元服したばかりの若者のことです。
後世においても清水冠者と呼ばれることからも分かるように、木曽義高は若くしてこの世を去ることになります。
木曽義高の墓と伝わる首塚は、大船の常楽寺の裏山にあります。その裏山の中腹には、常楽寺を開いた鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の娘、あるいは、源頼朝と北条政子の最初の子である大姫の墓と伝わる祠もあります。
INDEX
源氏同士の争いの末に若死にした 木曽義高の墓
木曽義高は11歳の時に、源頼朝と対立していた木曽義仲によって、和睦のために鎌倉の頼朝の元へ送られました。頼朝と政子の長女である大姫の許嫁という名目でしたが、実際は義仲が差し出した人質でした。
その後も義仲は、頼朝とは連携せずに、朝廷との交渉や平家討伐の戦を進め、平家を京の都から追い出すことに成功しました。しかし、義仲の軍勢が入った京の治安は回復せず、義仲と朝廷との関係も次第に悪化していきます。
その裏では、この頃は平家討伐の兵は出していないものの、頼朝も朝廷と接触していて、義仲を疎ましく思う頼朝と朝廷の思惑が一致したタイミングで、頼朝は義仲追討の兵を挙げます。最終的に義仲は頼朝が送った範頼、義経の軍勢に宇治川の戦い、粟津の戦いで立てつづけて敗れ、自らも敗死しました。
父・木曽義仲の死によって人質である自らの立場も危うくなった義高は、大姫の機転によって女房姿に変装して鎌倉を脱出しますが、数日後に武蔵国の入間川の河原で頼朝が送った追手によって討たれてしまいます。このとき、義高はまだ12歳でした。
義高の首は鎌倉へ送られ、首実検の後、現在、常楽寺が建つ場所の近くの田の中に葬られ、木曽免と呼ばれていたと伝わります。1680年(延宝8年)に、その木曽免から見つかった青磁の瓶に入った人骨を改めて供養したのが、現在、常楽寺の裏山の頂上にある木曽義高の首塚(木曽義高の墓)です。
木曽義高首塚の周辺は住宅地になっています。首塚へは、常楽寺の境内の横から数十メートルの裏山を登って行く他、首塚のすぐ裏側にある住宅地のなかの小さな街区公園・大船むくどり公園からも入ることができます。
北条泰時の娘の墓または大姫の墓と伝わる祠
木曽義高の首塚(木曽義高の墓)がある常楽寺裏山の中腹には、2つの祠が建っています。
登山道の手前側に建っているのが、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の娘の墓、あるいは、大姫の墓と伝わる祠です。
人質とはいえ許嫁としてともに暮らした木曽義高を亡くしたとき、大姫はわずか7歳でした。許嫁を身内に殺された大姫の心は深く傷つき、20歳の若さで亡くなるまで病床に伏せていたと言われています。一説には、常楽寺は、北条政子が大姫と義高の菩提を弔うために創建したといういわれも残っています。
しかし、常楽寺の由緒として定説なのは、北条泰時が妻の母の供養のために建立したというものです。
このことからも、この祠が誰かのお墓であるならば、北条泰時の娘の墓と見た方が自然でしょう。
真相はともかく、大姫の言い伝えが残るのは、後世の人もいつまでも二人がそばにいてほしいと願ったためでしょう。
なお、亀ヶ谷の鎌倉側の入口付近には、大姫を供養する岩船地蔵堂が建っています。
もう一つの、登山道の奥まった場所にある祠は、粟船稲荷です。常楽寺の山号は粟船山で、木曽義高の首塚(木曽義高の墓)があるこの裏山がその「粟船山」です。粟船稲荷は、これにちなむ稲荷社です。
以下のリンク先からその他の【北条政子ゆかりの地】もご覧ください