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北条政子ゆかりの地 | 尼御台や尼将軍と称された鎌倉幕府の陰の権力者

北条政子ゆかりの地 歴史上の人物

北条政子ほうじょう まさこは、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)源頼朝の妻です。頼朝の死後も、頼朝の後継者となる自らの子・源頼家実朝の後見人として、鎌倉幕府を支える存在でした。
源氏将軍が三代で途絶えた後も、執権として幕府の権力を握った、弟の北条義時やその子・泰時の強力な後ろ盾となりました。

そんな政子は、執権北条氏が編さんさせた鎌倉幕府の公式記録とも言える歴史書「吾妻鑑」にも、多く登場します。そのため、北条政子ゆかりの地も多く知られていますが、ここでは鎌倉周辺から厳選した5か所をご紹介します。

北条政子は、夫の源頼朝はもちろんのこと、子の大姫乙姫源頼家実朝、そして、孫たちのほとんどより長生きしました。若くして死んでいく子や孫たちに、政子は何を思ったでしょう?
所領の安堵や拡大、地位の向上のため、権力争いをして、散っていった御家人たちと違い、政子には権力にこだわる理由はなかったはずです。それでも、力を持つことになったきっかけは、きっと、長女・大姫の悲しい死に方を目のあたりにしたからに違いありません。

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頼朝の瀬戸神社と政子の琵琶島神社

北条政子源頼朝の出会いは、頼朝の配流先であった伊豆国でした。源頼朝はその伊豆の地で、源氏再興三嶋明神に祈願していました。
この願いが叶うと、源頼朝は、現在の金沢八景駅(横浜市金沢区)の近くに三嶋明神を勧請して、瀬戸神社を創建しました。
すると、北条政子も、瀬戸神社の向かいに、自身があつく崇敬していた竹生島弁財天を勧請して、琵琶島神社を創建しました。
源頼朝北条政子が創建したと伝わる神社は数多くありますが、それぞれが向かい合うように建っている例はめずらしいです。
瀬戸神社には、鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)源実朝が愛用していた「陵王りょうおう」と「抜頭ばとう」という、二つの舞楽面が所蔵されています。「抜頭」は運慶作という見方もされています。これら二つの面は、実朝が暗殺された後、母である政子瀬戸神社に奉納したと伝わるもので、ともに国の重要文化財に指定されています。

●住所
横浜市金沢区瀬戸18-14

●拝観料
無料(志納)

●駐車場
あり(瀬戸神社隣りのイオン金沢八景店の駐車場を正式に利用可能)

●公共交通機関
瀬戸神社
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より徒歩約2分
琵琶島神社
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より徒歩約5分

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数多くのエピソードが残る鶴岡八幡宮

源頼朝が鎌倉を本拠地と定め、その中心に整備したのが鶴岡八幡宮です。
鶴岡八幡宮は、宗教的な施設というだけでなく、歴代の鎌倉殿によって、幕府の重要な祭事や儀式を行う宮殿的な役割を持つ鎌倉幕府の象徴的な場所として機能していくようになっていきます。
そのため、源氏三代鎌倉殿の妻、あるいは母親であった北条政子も、鶴岡八幡宮に関するエピソードが数多く残っています。
由比ヶ浜まで続く若宮大路の、二の鳥居と三の鳥居の間には、中央に一段高くなっている土手のような歩道「段葛だんかずら」があります。この段葛は、海に近いためまわりが湿地帯で歩きにくかったため築いたとも、源頼朝が妻・北条政子の安産を祈って造ったとも、言われています。
また、鶴岡八幡宮源氏池に浮かぶ島に鎮座する旗上弁財天社の裏には、「政子石」と呼ばれる祈願石があり、恋愛や夫婦円満のパワースポットになっています。

●住所
鎌倉市雪ノ下2-1-31

●拝観料
無料(志納、一部施設は有料)

●駐車場
あり(有料)※大型バスのみ事前予約可能

●公共交通機関
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、徒歩約10分
※混雑を避けたい場合は、「鎌倉駅(西口)」より、今小路、横大路経由で、徒歩約15分

鶴岡八幡宮・段葛の桜並木(撮影日:2021.03.26)
鶴岡八幡宮・段葛

周辺の見どころ
源頼朝法華堂跡(源頼朝の墓)
宝戒寺

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政子創建のいわれも残る常楽寺と木曽義高首塚・姫宮塚

大船駅と北鎌倉駅の間にある常楽寺じょうらくじは、一般的には、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時ほうじょう やすときが、妻の母の供養のために建立した粟船御堂あわふねみどうがはじまりとされています。
しかし、「粟船山常楽寺略記」によると、北条政子が長女の大姫おおひめと、大姫の許嫁だった木曽義高きそ よしたかの菩提を弔うために創建したといういわれも残っています。そのいわれが示すように、寺の裏山には、木曽義高の首塚があります。
その近くには、北条泰時の娘の墓とも、大姫の墓とも伝わる祠がありますが、今となっては正確なことは誰にも分かりません。
人質として鎌倉の源頼朝の元に送られていた木曽義高は、父・義仲頼朝の軍勢に敗れると、自身も頼朝の手勢によって殺害されてしまいます。許嫁を身内に殺された大姫の心は深く傷つき、20歳の若さで亡くなるまで病床に伏せていたと言われています。大姫の病を癒すために、母の政子も、寺社への参詣や加持祈祷などの手を尽くしましたが、回復することはありませんでした。
木曽義高が討たれたとき、北条政子は、自分の幼い娘に何の配慮もなかった夫の源頼朝を強く責めました。後に「尼御台」「尼将軍」として権力を握るようになった背景には、自分の力が及ばず、娘を死に追いやってしまったという後悔の念があったからなのかもしれません。

●住所
鎌倉市大船5-8-29

●拝観料
無料(志納)

●駐車場
なし

●公共交通機関
大船駅から
JR各線・湘南モノレール「大船駅(東口)」より、徒歩約15分
または
江ノ電バス「鎌倉湖畔循環(行政センター経由)」行き、「地蔵前」行き、「鎌倉駅」行きで、『大船住宅前』下車徒歩約3分
北鎌倉駅から
JR横須賀線・湘南新宿ライン「北鎌倉駅」より、徒歩約20分
または
江ノ電バス「大船駅」行き、「上大岡駅」行きで、『常楽寺』下車徒歩約3分

常楽寺・参道から見た仏殿(撮影日:2022.04.20)
常楽寺
姫宮塚(北条泰時娘または大姫の墓)(撮影日:2022.04.20)
姫宮塚(北条泰時娘または大姫の墓)

周辺の見どころ
大船の切通し
長窪の切通し(高野の切通)
六国見山森林公園

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源氏ゆかりの地に開いた寿福寺と北条政子の墓

寿福寺じゅふくじ(壽福寺)は、源頼朝の死の翌年に、北条政子頼朝の菩提を弔うために、源氏ゆかりの地である亀ヶ谷(扇ヶ谷)に開いた禅宗寺院です。山号になっている「亀谷山」は、寺の背後にある源氏山の別名です。鎌倉五山第三位に列せられ、最盛期には10を超える塔頭が建ち並ぶ大寺院でした。
本殿(仏殿)の裏手には、北条政子と鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の墓と伝わる五輪塔が安置されたやぐら(平地が少ない鎌倉特有の、横穴式の墓、または供養の場)があります。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、源実朝北条政子は、死没するとそれぞれ「勝長寿院」(廃寺)に葬られたと書かれています。そのため、寿福寺の五輪塔は、実際に埋葬した墓ではなく供養塔であるか、勝長寿院から移されたものである可能性があります。
また、大町の安養院あんよういんにも、北条政子の墓と伝わる宝篋印塔が残されています。

●住所
鎌倉市扇ガ谷1-17-7

●拝観料
無料(志納) ※参拝は参道から中門までと墓地は自由。境内は非公開。

●駐車場
なし

●公共交通機関
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(西口)」より、徒歩約10分

寿福寺・北条政子の墓(五輪塔)(撮影日:2021.03.24)
寿福寺・北条政子の墓

周辺の見どころ
源氏山公園
仮粧坂(化粧坂切通し)
岩船地蔵堂

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政子の法名から名づけられた安養院

北条政子が現代まで偉人として語り継がれているのは、「鎌倉殿の御台所みだいどころ」としての頼朝存命中ではなく、むしろ、頼朝の死後、「尼御台」「尼将軍」として幕府を運営した手腕によるところのほうが大きいでしょう。
時の執権であった北条政子の弟・北条義時追討の院宣が後鳥羽上皇によって発せられ、鎌倉幕府と朝廷との全面戦争となった承久の乱は、鎌倉幕府が迎えた幕府創設以来最大の危機でした。
北条政子が「頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い」のではないかと問うた演説は、動揺する御家人たちを一枚岩にして、幕府の勝利を導くことに成功しています。
北条政子安養院を開いたのは、承久の乱から4年後の、政子が死没する年である1225年(嘉禄元年)のことです。安養院政子の法名から名づけられたものです。

●住所
鎌倉市大町3-1-22

●拝観料
200円

●駐車場
あり(駐車できる台数はわずかなため、公共交通機関の利用をおすすめします。近隣にコインパーキングもあります)

●公共交通機関
徒歩の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より徒歩約10分
バス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「緑ヶ丘入口」行きで『名越』下車徒歩約1分

以下のリンク先から、その他の同じ時代を生きた人物ゆかりの地もご覧ください

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝ゆかりの地
鎌倉幕府第2代執権・北条義時ゆかりの地
上総広常ゆかりの地 | 鎌倉で悲劇の最期を遂げた上総介殿の聖地巡礼
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