スポンサーリンク

岩船地蔵堂 | 源頼朝と政子の長女・大姫を供養するお堂

岩船地蔵堂(撮影日:2020.12.01) 鎌倉
岩船地蔵堂(撮影日:2020.12.01)

岩船地蔵堂いわふねじぞうどうには、源頼朝北条政子の最初の子である大姫おおひめの守り本尊と伝わる地蔵尊が祀られています。
諸説ありますが、源頼朝北条政子の次女・乙姫三幡)がこの近くに葬られ、墳墓堂が建立されたため、大姫ではなく、乙姫の守り本尊である可能性もあります。その場合、乙姫の墓岩船地蔵堂の前身であったのかもしれません。
なお、大姫の墓とも伝わる祠は、木曽義高の首塚木曽義高の墓がある大船の常楽寺の裏山にもありますが、大姫義高の悲恋の逸話をもとに後年作られた創作である可能性が高いです。

幼少の大姫は、源頼朝と同じ河内源氏木曽義仲きそ よしなか源義仲)の嫡男・義高と婚約しましたが、その結末は悲劇的なものでした。
木曽義高は、源頼朝と対立していた木曽義仲が和睦のために鎌倉へ送った人質でした。義仲が北陸の倶利伽羅峠の戦いくりからとうげのたたかい平家の大軍を破り上洛する直前の、1183年(寿永2年)春のことです。

スポンサーリンク

心に深い傷を負ったまま終えた 大姫の短い生涯

しかし、その後も頼朝と連携はせずに、朝廷との交渉や平家討伐の戦いを続ける義仲は次第に行き詰まり、頼朝の討伐の対象になってしまいます。
最終的に木曽義仲は、源頼朝が送った頼朝の弟・範頼義経の軍勢に宇治川の戦い粟津の戦いで立てつづけて敗れ、自らも敗死しました。

鎌倉で、許嫁となった木曽義高と仲睦まじく暮らしていた大姫でしたが、義仲追討によって義高の命も危ないことを知ると、義高を逃がそうとします。しかし義高はすぐに捕まり、源頼朝が送った討手によって討ち取られてしまいました。大姫が6歳、義高が11歳で出会ってから、まだ1年しか経過していない、1184年(寿永3年)春のことです。

ともに暮らしたのはわずか1年でしたが、幼少の大姫にとっては、おそらく兄妹のような感覚であったであろう義高を身内に殺されたことは、深い深い傷として残ることになります。

憔悴しきった大姫は病床に伏せ、生涯に渡って回復することはなかったと言います。源頼朝大姫後鳥羽天皇の妃にして入内させようとしますが、うまくいかず、1197年(建久8年)、大姫は20歳で死去しました。

鎌倉時代の歴史書「北条九代記」(成立は江戸時代)には、大姫ではなく乙姫亀ヶ谷かめがやつに葬られ、北条氏江馬殿)をはじめ、三浦氏畠山氏梶原氏など多くの御家人たちによって墳墓堂が造られ、仏事がいとなまれたことが記されています。(堂の説明文には、上記の事柄が「北条九代記」に大姫のこととして書かれていると記されています。しかし、「北条九代記」を読むと、頼朝の娘(姫君)の病死を報じる項に、木曽義高のことに触れつつ、年代的にも年齢的にも、その他の関係する人物的にも、明らかに大姫ではなく乙姫の死について記されています。参照している「北条九代記」の版によって内容が異なっている可能性もあり、真相は不明です)

スポンサーリンク

岩船地蔵堂のお参り

普段、岩船地蔵堂の扉は閉ざされていますが、扉のすき間から地蔵尊を拝観させていただくことが可能です。堂の説明文によると、扉のすき間からお参りできるのは前立像の木造地蔵尊で、堂奥には本仏石造地蔵尊が安置されています。

岩船地蔵堂・地蔵尊(撮影日:2022.06.10)
岩船地蔵堂・地蔵尊(撮影日:2022.06.10)
スポンサーリンク

中世の交通の要衝に建つ 岩船地蔵堂

岩船地蔵堂はその、中世から鎌倉市中と山ノ内(北鎌倉)を結んでいた「鎌倉七口」の一つ・亀ヶ谷坂(亀ヶ谷坂切通し)の、鎌倉市中側の入口に建っています。
現在ではすぐ横をJR横須賀線が走っていて、歴史を感じるレンガ造の扇ヶ谷ガード(岩船ガード)をくぐると、今小路から続く、かつての鎌倉街道・上道が走っています。鎌倉街道・上道は、中世には武蔵大路と呼ばれていて、「鎌倉七口」の一つ・仮粧坂(化粧坂切通し)けはいざか/けわいざかきりどおしから藤沢を抜けて武蔵国府が置かれていた府中方面に続く街道でした。

岩船地蔵堂はこのような、中世から近世まで重要な街道として機能していた大通りが交わる、繁華街であったであろう場所の一角に建っています。
岩船地蔵堂は1690年(元禄3年)に再建され、現在のお堂は2001年に新造されたもので、近隣にある海蔵寺によって管理されています。

扇ヶ谷ガード(岩船ガード)(撮影日:2020.12.01)
扇ヶ谷ガード(岩船ガード)(撮影日:2020.12.01)
スポンサーリンク

岩船地蔵堂周辺の見どころ

浄光明寺
浄光明寺じょうこうみょうじは、鶴岡八幡宮境内の西側に位置する扇ヶ谷(亀ヶ谷)の支谷の一つ・泉ヶ谷にある、真言宗泉涌寺派の準別格本山です。開基は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼と第6代執権・北条長時...
鶴岡八幡宮
1180年(治承4年)、源頼朝は源氏ゆかりの地・鎌倉を平家討伐の本拠地として選ぶと、鎌倉のまちづくりに着手します。その際、源頼朝の五代前の祖先にあたる源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して鎌倉の由...
英勝寺
英勝寺えいしょうじは、江戸幕府初代将軍・徳川家康の側室・お勝の方が開いた、鎌倉唯一の尼寺です。お勝の方は、室町時代後期に扇谷上杉家の重臣として活躍した太田道灌おおた どうかんの子孫です。家康の死...
寿福寺・源実朝と北条政子の墓
寿福寺じゅふくじ(壽福寺)は、源頼朝の死の翌年に、北条政子が頼朝の菩提を弔うために開いた禅宗寺院です。山号になっている「亀谷山」は、寺の背後にある源氏山の別名です。鎌倉五山第三位に列せられ、最盛...
海蔵寺
海蔵寺は、鎌倉・扇ガ谷おうぎがやつの谷戸の奥に位置する、扇谷上杉家ゆかりの寺院です。扇谷上杉家は、室町時代から戦国時代にかけて栄えた上杉氏の諸家の一つで、歴代の鎌倉公方や古河公方に仕えた他、相模...
仮粧坂(化粧坂切通し)
仮粧坂けはいざかは、鎌倉の扇ガ谷と現在の源氏山公園を結ぶ古道です。「化粧坂」や「化粧坂切通し」と表現される場合もあります。「仮粧坂」も「化粧坂」も、読み方は「けはいざか(けわいざか)」です。「鎌倉七...
源氏山公園
源氏山公園は、源頼義や頼朝の父・源義朝の屋敷があったとされる寿福寺周辺の背後にある源氏山の山頂一帯に整備された公園です。公園内には、源頼朝像や日野俊基ひのとしもとの墓(宝篋印塔ほうきょういんとう)、...
亀ヶ谷坂(亀ヶ谷坂切通し)
亀ヶ谷坂かめがやつざかは、鎌倉の扇ガ谷と北鎌倉の山ノ内を結ぶ古道です。「亀ヶ谷坂切通し」と表現される場合もあります。「鎌倉七口かまくらななくち(鎌倉七切通)」の一つに数えられていて、国の史跡に指定さ...

DATA

住所 鎌倉市扇ガ谷3丁目
アクセス
行き方

JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅」より、徒歩約15分

駐車場 なし
料金

無料(志納)

電話番号 0467-22-3175(管理元の海蔵寺)
※このページに掲載している内容は、予告なく変更となっている場合があることをご了承ください。
※地図は、右上のレイヤーボタンから、「オープンストリートマップ」「地理院地図」「Google マップ」に切り替えられます。大まかな場所を知りたい場合は「Google マップ」、目的地付近の詳細な道路地図を調べたい場合は「オープンストリートマップ」または「地理院地図」を選択すると分かりやすいです。左上の縮尺ボタンとあわせてご活用ください。
error: 申し訳ありません。コピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました