三浦義澄は、鎌倉幕府創設期の三浦一族の当主です。1180年(治承4年)の源頼朝挙兵時に衣笠城で討ち死にした三浦義明の次男ですが、長男(嫡男)の兄・杉本義宗は杉本氏を名乗り、1164年(長寛2年)に若くして戦死しているため、義澄が三浦宗家(本家)の家督を継ぎました。
INDEX
鎌倉幕府草創期に活躍
父・義明の命と引き換えに衣笠城を脱出して、源頼朝と合流した三浦義澄は、その後の平家方との戦いで武功を挙げ、鎌倉幕府成立後は最有力の御家人の一人になります。
頼朝の死後も、第2代将軍・源頼家を補佐する「十三人の合議制」に選ばれ、その権力は子の三浦義村に引き継がれていきました。
三浦義澄の墓は、父・義明の墓がある満昌寺や子・義村を祀っている近殿神社の近くの、薬王寺旧跡にあります。



和田義盛が創建した薬王寺

薬王寺は、1212年(建暦2年)に、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が、父・杉本義宗や叔父・三浦義澄の菩提を弔うために創建したと伝わっています。
1876年(明治9年)頃に廃寺となり、現在は三浦義澄の墓といくつかの石碑や石塔だけが残っています。
山号 | 仏頂山 |
宗派 | ― |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師如来像 |
創建 | 1212年(建暦2年) |
開山 | ― |
開基 | 和田義盛 |
薬王寺の遺構
駒繋石(こまつなぎいし)

薬王寺の山門があった場所には、そのことを示す石碑と、薬王寺にお参りする時に馬の手綱を繋いだとされる「駒繋石」があります。
「三浦礼所四番 薬師如来 薬王寺」の石碑

三浦義澄の墓の入口に建つ「薬王寺旧跡」の石碑の裏側に、「三浦礼所四番 薬師如来 薬王寺」の石碑が残されています。
三浦義澄の墓脇の石塔群

三浦義澄の墓の脇には、複数の石塔が残されています。
三浦義澄の墓や薬王寺旧跡へのアクセス
三浦義澄の墓や薬王寺旧跡は、大通りから奥まった住宅地の路地の中にあるため、場所が少しわかりにくいです。
大通り(久里浜田浦線)からの入口

満昌寺などがある大矢部1丁目の久里浜田浦線の北側(「市営公園墓地入口」信号の近く)に、「薬王寺旧跡」の案内板の矢印が示す方向に、大通りから斜めにのびる細道があります。この、明らかに古道とわかる細道を20mほど進むと、右側に駒繋石と山門跡を示す石碑が建っています。おそらくこの道が参道だったのでしょう。
この道を奥へと進むと、また「薬王寺旧跡」の案内板が見えてきますので、矢印の方向に進むと、薬王寺旧跡の案内板や三浦義澄の墓などがあります。
近殿神社からの順路

近殿神社から住宅街の路地の旧道をたどって行くこともできます。近殿神社の鳥居の前から境内を見て右側に進むと、1分ほどで着きます。