佐野八幡神社は、江戸時代前期の1688年(元禄元年)に、旧佐野村の小山小左衛門が、村民を代表して京都の石清水八幡宮を村内の諏訪社に勧請して、「八幡社」として祀ったのがはじまりです。
江戸時代後期の1845年(弘化2年)には、村民が協力し、現在地に八幡社の社殿を建立して、諏訪社境内から遷座させました。
その後、八幡社は、1873年(明治6年)に村社に列せられ、1908年(明治41年)には一村一社の政策により旧佐野村に鎮座していた貴船社と八幡社創建の地でもある諏訪社を合祀して、「佐野八幡神社」と呼ばれるようになりました。
主祭神 | 誉田別命:旧八幡社 健御名方命:旧諏訪社 海津見命:旧貴船社 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1688年(元禄元年):旧八幡社 |
祭礼 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 8月15日 例大祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
佐野八幡神社の社殿にかかる扁額の「八幡社」という文字は、1932年(昭和7年)に現在の社殿が完成した当時、横須賀鎮守府司令長官だった海軍大将・野村吉三郎の筆によるものです。
佐野八幡神社からもほど近い田戸台には、横須賀鎮守府司令長官官舎があり、野村吉三郎も司令長官時代はそこに住んでいました。戦後は田戸台分庁舎として海上自衛隊によって管理されています。田戸台分庁舎内には野村吉三郎の胸像もあり、年に1、2回一般公開される際に見ることができます。
INDEX
武運の神様を祀る佐野八幡神社
佐野八幡神社(八幡社)の近くには、明治時代の中頃から、東京湾要塞司令部や横須賀重砲兵連隊の練兵場(それぞれ、現在の横須賀市上町と不入斗町)など、旧日本陸軍の施設が多く置かれるようになりました。
鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)・源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を造営して、単なる神社という以上にあつく崇敬していたというエピソードが代表されるように、八幡神(誉田別命)は武運の神様として信仰をあつめてきました。
そんな八幡神を祀る佐野八幡神社が、すぐ近くに駐留していた旧日本軍の軍人たちからも崇敬されていたであろうことは、容易に想像できます。
横須賀軍港に近かった横須賀・緑ヶ丘の諏訪大神社裏山(現在の諏訪公園)にも、八幡社が大正時代に祀られました。(現存せず。もともとは大津陣屋に鎮座していたもの)
日露戦争後に奉納された砲弾がシンボリックな参道入口
佐野八幡神社には、昭和初期に在郷軍人会より砲弾が奉納されています。現在も鳥居の裏に、左右それぞれ2発ずつ安置されています。
これは横須賀ならではの光景と言うわけではなく、とくに日清戦争・日露戦争の後は、国威発揚や戦勝ムードが漂う中、砲弾などの武器が神社や寺院に奉納されるということが全国的に多く見られました。佐野八幡神社に砲弾が奉納されたのもまさにこの時期です。
今となっては戦争の負の遺産でしかありませんが、2発ずつ鳥居の左右に置かれるというシンボリックな扱いは、この土地ならではと言えるかもしれません。
旧六浦藩藩主・米倉家より譲り受けた神輿が鎮座する旧社殿
社殿の右奥に鎮座している建物は佐野八幡神社の旧社殿で、現在は神輿庫として使用されています。
佐野八幡神社の神輿は、明治のはじめに、旧六浦藩藩主の米倉家より譲り受けたものと言われています。
米倉家は幕末に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)の警護を担当するなど、その立地からも横須賀とは縁があったようです。米倉家は、同じ横須賀市内の船越神社にも、社殿(現在の神輿庫)を寄進しています。