清雲寺は、三浦氏宗家(本家)の初代とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第3代当主にあたる三浦義継が、父・為継の供養のために建立した寺院です。
本堂の背後には、三浦為継の墓と伝わる五輪塔があります。また、その両脇には、三浦氏初代の為通と義継の墓と伝わる五輪塔が並んでいて、三浦氏の初代から第3代までの墓がそろって並んでいます。
また、清雲寺は、東国花の寺百ヶ寺の神奈川第4番札所(オミナエシの寺)に認定されています。
| 山号 | 大富山 |
| 宗派 | 臨済宗円覚寺派 ※室町時代に天台宗から臨済宗に改宗 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 滝見観音(観音菩薩) |
| 創建 | 1104年(長治元年) |
| 開山 | 不詳 |
| 開基 | 三浦義継 |
もともと三浦為通と義継の墓は、清雲寺からもほど近い場所にあった円通寺(廃寺)の深谷やぐら群に安置されていましたが、昭和前期にその一帯が旧日本軍の用地となったため、清雲寺に移されました。
このとき、円通寺の本尊・観音菩薩坐像(通称「滝見観音」)も移され、現在は清雲寺の本尊として親しまれています。

INDEX
代々源氏の棟梁に仕えた 三浦氏三代の墓

三浦氏宗家(本家)の初代である三浦為通(村岡為通)は、桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の子孫です。
為通は、平安時代後期に陸奥国で起こった前九年の役での戦功によって源頼義から相模国三浦に領地を与えられ、この場所の地名から「三浦」姓を名乗るようになりました。本拠地として衣笠城を築いたのも為通です。(諸説あり)
三浦為通の子で三浦氏の第2代・為継は、再び陸奥国や出羽国で起こった後三年の役に、源義家が率いる源氏方として参戦しました。為継を知るエピソードとしては、同じく源氏方として戦った鎌倉権五郎景政との、景政の左目に刺さった矢を為継が顔に足をかけて抜こうとして逆上されたという話がよく知られています。
清雲寺を開いたのは三浦氏第3代の義継で、父・為継の菩提寺として建立しました。義継は、子の三浦大介義明とともに源義朝(源頼朝の父)に仕えて相模国での勢力を拡大し、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての、三浦一族繁栄の基盤をつくった武将です。
清雲寺・本堂の裏手には、そんな、三浦氏宗家の初代当主の為通から、第2代・為継、第3代・義継の墓とされる五輪塔が並んで立っています。
それぞれの略歴から分かるとおり、三浦為通・為継・義継はみな、源氏(河内源氏)の棟梁に仕えてきました。このことが、この後、三浦一族が源頼朝の鎌倉幕府創設を助け、幕府の要職を与えられるようになる布石となったのでした。

三浦氏ゆかりの寺院・円通寺とその本尊「滝見観音」を受け継ぐ清雲寺

清雲寺の本堂の背後に並ぶ三浦氏三代の墓のうち、中央の五輪塔が第2代・為継の墓と伝わるものです。その両脇の五輪塔2つが、初代・為通と第3代・義継の墓とされていますが、左右それぞれがどちらのものかは分かっていません。
初代・為通と第3代・義継の墓は、この近隣(大矢部2丁目)にあった円通寺(圓通寺)から移されたものです。
円通寺は、三浦為通が、清雲寺とちょうど大通り(現在の久里浜田浦線)を挟んだ反対側の場所に開いたとされている寺院ですが、その詳細は分かっていません。
江戸後期に編さんされた「新編相模国風土記稿」の「三浦氏古墳図」などから、円通寺の裏山には三浦一族の墳墓とされる「やぐら」(主に中世に造られた横穴式の墳墓または供養の場)群があったことが分かっていて、少なくとも中世には、三浦氏にとって重要な寺院であったことが想像できます。このやぐら群は、このあたりの旧地名(小名)から、「深谷やぐら群」と呼ばれています。
深谷やぐら群では20穴以上のやぐらが確認されていて、三浦氏の初代・為通と第3代・義継の墓とされる五輪塔は、その最上部のやぐらに安置されていました。
円通寺は、江戸時代後期の1839年(天保10年)にお堂が村民に売り払われたため、現在は廃寺となっています。その後、旧円通寺の本尊・観音菩薩坐像は、清雲寺(江戸時代には円通寺は清雲時の末寺となっていました)に移されています。
1939年(昭和14年)には、円通寺跡と深谷やぐら群一帯が旧日本軍の用地となり、深谷やぐら群に残されていた三浦氏の初代・為通と第3代・義継の墓とされる五輪塔も清雲寺に移されました。
円通寺から清雲寺に移された観音菩薩坐像(通称「滝見観音」。国指定重要文化財)は、日本の仏像には見られない特徴を持っていることから、南宋時代の中国で製作されたものと考えられています。詳しい伝来の経緯などは分かっていませんが、この当時の三浦一族の財力や影響力、信仰心を知るうえでも、とても重要な史料です。


「石造板碑 文永八年在銘」が物語る 佐原氏が関与した 深谷やぐら群

深谷やぐら群の最上部にあった三浦氏の初代・為通と第3代・義継の墓の近くには、千手観音の石像と、石造の塔婆「石造板碑 文永八年在銘」が立っていたと伝えられています。この板碑は為通と義継の墓とともに清雲寺に移されて、現在も墓の前に立っています。
「石造板碑 文永八年在銘」は、秩父産の石を用いた武蔵型板碑と呼ばれるもので、高さが約140cmあります。中央には「文永八年五月十四日左衛門小尉平盛信」と刻まれています。平盛信とは、三浦一族の佐原盛信のことです。
三浦一族は1247年(宝治元年)に起きた宝治合戦で北条氏方に敗れて滅びましたが、佐原盛信はそのときに北条氏方について生き残った三浦氏佐原流の子孫です。
三浦氏佐原流は三浦氏宗家として三浦氏を再興して、鎌倉幕府が滅亡した後も勢力を拡大していき、その系譜は戦国大名の相模三浦氏へと受け継がれていきます。

この「石造板碑 文永八年在銘」は、鎌倉時代中期の1271年(文永8年)に、佐原盛信が父・光盛の十三回忌に供養のため造立したものです。一般的にやぐらは、三浦為通・為継・義継らの生きた平安時代ではなく、鎌倉時代中期以降から室町時代にかけて多く造営されたとみられているため、為通と義継の墓があった深谷やぐら群も、その前後の時代に整備されたものと考えられます。
また、深谷やぐら群には、1213年(建暦3年)に起きた和田合戦で討ち死にした、三浦一族の和田氏とその家人の墓もあったと伝えられています。
佐原盛信・光盛の一族(とその先祖)は、和田合戦や宝治合戦と言った、三浦一族を二分するような争いを生き抜いてきた者たちのため、自らの氏族(佐原氏)だけでなく、三浦一族全体の先祖供養のため、古くから三浦氏の菩提寺であった円通寺にやぐらを整備したのかもしれません。


なお、清雲寺に伝わる毘沙門天立像は、円通寺より観音菩薩坐像(滝見観音)が移される前の旧本尊で、和田合戦で和田義盛に向けて放たれた矢を受け止めたという伝承が残ることから、「矢請けの毘沙門天(箭請毘沙門天)」と呼ばれています。

清雲寺・三浦氏三代の墓周辺の見どころ
大矢部・衣笠方面






岩戸・佐原方面








