東光禅寺は、鎌倉時代初期に活躍した武将・畠山重忠が開基となって創建された寺院です。山門の横には畠山重忠の供養塔もあり、東光禅寺は畠山重忠ゆかりの寺院です。
創建当時は鎌倉の薬師ヶ谷の、現在の鎌倉宮(大塔宮)のあたりにあり、「東光寺」と称していました。室町時代中期の応仁年間(1467~69年)に、現在の釜利谷の地に移り、後に寺の名前も「東光禅寺」と改めました。
東光禅寺の本尊・薬師如来像は畠山重忠の念持仏と伝わるもので、脇士として日光菩薩・月光菩薩を従えた薬師三尊の形式となっています。
山号 | 白山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師如来像 |
創建 | 1201~03年頃(建仁年間) |
開山 | 勅諡大興禅師(葦航道然) |
開基 | 畠山重忠 |
INDEX
「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠
源頼朝の平家討伐の挙兵当初、畠山重忠は、父・重能が平家方の家人として京にいたこともあり、平家方として源氏方についた三浦一族と戦いました。衣笠城合戦では、重忠の軍勢が三浦一族の当主・三浦大介義明を討ち取っています。
けれども、その直後に源氏方に寝返り、これ以降は源頼朝・鎌倉幕府の御家人として重用されました。
源頼朝が死没し、鎌倉幕府の実権を北条氏が握るようになると、他の多くの有力御家人と同じように、畠山重忠も幕府内の政争に巻き込まれ、1205年(元久2年)、時の執権・北条時政とその妻・牧の方の謀略によって一族もろとも滅ぼされてしまいました。
これより前、1203年(建仁3年)に起きた比企能員の変では、畠山重忠は執権北条氏に味方し、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の外戚であり、重忠と同じ武蔵国の有力武士団であった比企一族を滅ぼしました。
しかし、皮肉なことに、比企一族の不在によって不安定になった武蔵国を掌握しようとする執権北条氏の次のターゲットになったのが、武蔵国の雄・畠山重忠とその一族でした。北条時政によって謀反の疑いをかけられた畠山重忠らは、時政の命により、まず、鎌倉にいた重忠の子・畠山重保が由比ヶ浜で三浦義村らによって謀殺され、その後、緊急事態の知らせを受けて所領の武蔵国から鎌倉へ向かった畠山重忠は、途中の二俣川で北条義時らの大軍によって討たれてしまいました。
畠山重忠は「坂東武士の鑑」と称され、模範的な武士として人望も厚かったと伝えられています。
わずかな兵で鎌倉に向かっていた畠山重忠らに謀反の疑いなどなかったことは明らかで、源頼朝の鎌倉幕府創設以来の功労者だった無実の畠山重忠の排除に不信感を持っていた北条義時と政子によって、北条時政と牧の方が伊豆に追放される事件へとつながっていきます。
なお、畠山重忠の母は衣笠城合戦で重忠らが討ち取った三浦義明の娘で、畠山重忠の妻は北条時政の娘(北条政子や義時の妹)とされていて、畠山重忠の家族がたどった運命は、この時代特有の、有力豪族間の婚姻関係と、それをものともしない親族間の争いの縮図のようでもあります。
釜利谷は畠山重忠とその一族ゆかりの地
武蔵国の有力武士だった畠山重忠は、鎌倉に幕府が開かれると、本拠地であった武蔵国の秩父・金沢村から、鎌倉の隣接地である釜利谷周辺に鍛冶職人を呼び寄せて住まわせたと言われています。神奈川県立金沢文庫の初代文庫長・関靖氏の研究によると、これが「金沢」の地名の由来とされています。
釜利谷周辺には、東光禅寺の境内に残る畠山重忠の供養塔の他、重忠の子・畠山重保の墓と伝わる五輪塔や重保の幼名である六郎にまつわる地名が残されていて、畠山重忠とその一族ゆかりの地であることをうかがい知れます。
鎌倉にあった東光寺が釜利谷へ移ってきた当時は、現在よりも西寄りの釜利谷やぐら遺跡近くにあったとされています。1986年(昭和61年)から翌年にかけて行われた釜利谷やぐら遺跡の発掘調査では、山の中腹から、東光寺の歴代住職の墓9基と、畠山重忠の墓と伝わる供養塚が確認されています。
前身の東光寺で起きた護良親王の暗殺
東光禅寺は、創建された当時は、鎌倉の薬師ヶ谷の、現在の鎌倉宮(大塔宮)のあたりにありました。寺の名前も、「医王山 東光寺」と称していました。
この東光寺で起きた有名な事件が、護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)の暗殺です。
後醍醐天皇の皇子・護良親王は、北条一門を滅亡させ、鎌倉幕府を倒幕させることに貢献しました。しかし、建武の新政がはじまると後醍醐天皇と親しかった足利尊氏と対立するようになり、謀反の疑いをかけられた末、尊氏の弟・足利直義によって東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。
護良親王の最期は、東光寺の書院で写経中に足利直義に殺害されたとも、足利直義の命を受けた淵辺義博によって土牢で殺害されたとも、伝わります。
この事件から100年以上たった、室町時代中期の応仁年間(1467~69年)、東光寺は現在の釜利谷の地に移り、山号もこの地の古くからの地名である「白山」に改めて「白山 東光寺」としたと伝えられています。さらにその後、現在地に移転した際に、「白山 東光禅寺」と寺名も改められています。
東光禅寺の禅の教えを広めるユニークな取り組み
現在の東光禅寺では、本堂で行われる坐禅・写経体験の他、日本語・英語のバイリンガル対応のオンライン坐禅会を開くなど、禅の教えを広めるためのユニークな取り組みも行っています。
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