元弘の乱で鎌倉幕府を倒幕して、武家政権から天皇中心の社会へと導く立役者となった、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)は、無実の罪を着せられて、鎌倉の東光寺(現在の鎌倉宮がある場所。横浜市金沢区にある東光禅寺の前身の寺院)で殺害されてしまいます。


護良親王の亡骸は、親王の身のまわりの世話役として付き添っていた南御方と理智光寺の住職によって、理智光寺の山の上に葬られたと伝えられています。
理智光寺は江戸時代までは存続していましたが、現在は廃寺となってしまっていて、護良親王の墓だけが宮内庁管理のもと残っています。
2021年9月現在、護良親王墓は、2019年9月9日の台風15号による被災のため、当面の間、参拝禁止となっています。

INDEX
護良親王が葬られた理智光寺
残念ながら現在は、護良親王が葬られた理智光寺の痕跡と思われる遺構はなにも見られず、昭和期に建てられた寺の跡を示す石碑が残っているだけです。
理智光寺は理智光寺谷と呼ばれる谷戸にありましたが、昭和中期に江ノ電分譲地として造成され、現在は住宅地になっています。
理智光寺にあった阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)は、廃寺となる際に覚園寺の薬師堂に移されています。
山号 | 五峰山 |
宗派 | ― |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来坐像 ※理智光寺阿弥陀堂の本尊 |
創建 | 13世紀ごろ |
開山 | 願行憲静 |
開基 | ― |
護良親王の墓は、護良親王の子とされる日叡が再興した妙法寺の山上に、日叡が両親を弔うために建立したと伝わるものもあります。

東慶寺の寺領だった護良親王ゆかりの地
護良親王の死後、父である後醍醐天皇は、親王の菩提を弔うために、親王の妹である皇女に北鎌倉・松岡の東慶寺に入山させています。皇女は用堂尼として、東慶寺の5代目の住持となっています。
そのような縁から、理智光寺があった場所や、護良親王最期の地となった東光寺(現在の鎌倉宮がある場所)は、江戸時代には東慶寺の寺領になったと伝えられています。(東慶寺は、明治時代に鎌倉宮を造営する際に土地を提供しています。また、護良親王墓(理智光寺跡)は現在、宮内庁の管理です。)

護良親王墓&理智光寺跡周辺の見どころ






