後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)は、元弘の乱で鎌倉幕府を倒幕して、武家政権から天皇中心の社会へと導く立役者でした。しかし、建武の新政以降は一転して、後醍醐天皇や足利尊氏らと対立するようになり、最終的に無実の罪を着せられて、鎌倉の東光寺(現在の鎌倉宮がある場所。横浜市金沢区にある東光禅寺の前身の寺院)で殺害されてしまいました。
護良親王の亡骸は、親王の身のまわりの世話役として付き添っていた南御方と理智光寺の住職によって、理智光寺の山の上に葬られたと伝えられています。
理智光寺は江戸時代までは存続していましたが、現在は廃寺となってしまっていて、護良親王の墓だけが残っています。護良親王の墓は、神奈川県ではめずらしい、宮内庁が管理する皇族の墳墓です。
INDEX
護良親王が葬られた理智光寺
残念ながら現在は、護良親王が葬られた理智光寺の痕跡と思われる遺構はなにも見られず、昭和期に建てられた寺の跡を示す石碑が残っているだけです。
理智光寺は理智光寺谷と呼ばれる谷戸にありましたが、昭和中期に江ノ電分譲地として造成され、現在は住宅地になっています。
理智光寺にあった阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)は、廃寺となる際に覚園寺の薬師堂に移されています。
山号 | 五峰山 |
宗派 | ― |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来坐像 ※理智光寺阿弥陀堂の本尊 |
創建 | 13世紀ごろ |
開山 | 願行憲静 |
開基 | ― |
護良親王の墓は、この理智光寺跡の陵墓の他に、護良親王の子とされる日叡が再興した妙法寺の山上に、日叡が両親を弔うために建立したと伝わるものが残っています。
将軍「護良親王」&執権「北条時行」の幻の鎌倉幕府再興
無実の罪を着せられた護良親王は、父である後醍醐天皇によって捕らえられ、足利尊氏の弟の直義の監視下に置かれて、鎌倉の東光寺の土牢に幽閉されます。
護良親王はこの土牢に9ヶ月幽閉された後、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児・北条時行を擁立して鎌倉幕府を再興しようとした中先代の乱の混乱に乗じて殺害されてしまいます。
この2日後、北条時行は鎌倉を奪還しますが、護良親王を征夷大将軍に擁立して鎌倉幕府を再興されることを恐れた足利直義が、時行が鎌倉入りする前に殺害したという見方があります。
護良親王の最期は、東光寺の書院で写経中に足利直義に殺害されたとも、足利直義の命を受けた淵辺義博によって土牢で殺害されたとも、伝わります。
明治に入ってから、東光寺跡には明治天皇によって護良親王を祀る鎌倉宮が創建されましたが、鎌倉宮の境内には護良親王が幽閉された土牢が復元されて残っています。
歴史を感じさせてくれる護良親王墓の苔むした参道
護良親王の墓は、理智光寺跡から、理智光寺谷の山すそを一気に30mほど上がった高台にあります。陵墓の最上部は通常立入禁止となっていて、一段下がった場所から参拝することができます。
護良親王の墓の上部へ続く階段は、2019年9月の台風15号による被災後に新しく造りかえられています。一方、階段両側の石積や平場の参道の石畳はかつてのままで、青々と苔むしていて、歴史を感じさせてくれます。
長い年月をかけて馴染んでいくのでしょうけれど、新しい階段と苔むした石積や参道のコントラストは、これはこれで美しいです。
雨の日や雨が降った後などは、参道が滑りやすくなりますので、お気をつけください。
東慶寺の寺領だった護良親王ゆかりの地
護良親王の死後、父である後醍醐天皇は、親王の菩提を弔うために、親王の妹である皇女に北鎌倉・松岡の東慶寺に入山させています。皇女は用堂尼として、東慶寺の5代目の住持となっています。
そのような縁から、理智光寺があった場所や、護良親王最期の地となった東光寺(現在の鎌倉宮がある場所)は、江戸時代には東慶寺の寺領になったと伝えられています。(東慶寺は、明治時代に鎌倉宮を造営する際に土地を提供しています。また、護良親王墓(理智光寺跡)は現在、宮内庁の管理です。)
護良親王墓の行き方
護良親王の墓がある場所は、地図を確認しても、いまいちどこからアクセスすればいいのか分かりにくいかもしれません。
鎌倉宮を起点にした分かりやすいルートは、永福寺跡方面に向かって、永福寺跡手前のテニスコート横で右折、理智光寺橋を渡って道なりに2分ほど歩くと左側に参道入口(このページのカバー画像)があります。参道入口近くには、理智光寺址の石碑が立ってます。