鎌倉・扇ガ谷の八坂大神は、鎌倉時代前期の武将・相馬次郎師常が自邸の守護神として勧請したのがはじまりと伝わる、旧扇ガ谷村の鎮守です。
明治初期までは牛頭天王を祀る「天王社」、または創建した相馬師常にちなみ「相馬天王」と呼ばれていましたが、明治維新後の神仏分離令で「八坂大神」と名前を改めました、
現在の八坂大神は寿福寺のすぐ南隣りに鎮座していますが、扇ガ谷内の、比較的狭い範囲で移転をくり返してきた歴史があります。
当初は、現在の巽神社のあたりにありましたが、網引地蔵が建つ山(浄光明寺の裏山)の西側のふもとにある相馬師常の墓の側に遷されました。さらに、寿福寺・本堂の左側に遷り、江戸時代後期の1801年(享和元年)にようやく現在地に落ち着きました。
主祭神 | 素戔嗚尊 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1192年(建久3年) |
祭礼 | 7月12日 祭礼 ※日にちは年によって異なります |
八坂大神(相馬天王)独特の六角神輿は、京都・八坂神社の神輿を伝承したものと伝えられています。
八坂大神の神輿については、江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」に、かつての神輿は荒ぶるため、浄光明寺の近くにあった相馬師常の墓の岩窟にとじ込め、石で蓋をして、新たな神輿を造ったという逸話も書かれています。
源氏代々ゆかりの地にあった相馬師常の屋敷と八坂大神
八坂大神を創建した相馬次郎師常は、平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した武将・千葉常胤の子で、相馬氏の初代当主です。
相馬師常の父・千葉常胤は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力な御家人の一人で、房総半島の下総国を本拠地とした千葉氏の第3代当主です。常胤は、鎌倉を拠点とした源頼朝の父・源義朝とも親交があり、後に頼朝が平家討伐の挙兵をした際に、頼朝に源氏ゆかりの鎌倉を本拠地とするよう勧めた人物とされています。
八坂大神の隣りにある寿福寺は、北条政子が源義朝の屋敷跡に、源頼朝の菩提を弔うために開いた寺院と伝えられています。
相馬師常の屋敷や八坂大神が源氏代々ゆかりの地である寿福寺の近くにあったのは、千葉氏一族と源頼朝との親密さの証といえるのかもしれません。
かつて八坂大神の境外末社だった銭洗弁財天宇賀福神社
鎌倉随一の金運アップのパワースポットとして知られる銭洗弁財天宇賀福神社は、かつて、八坂大神の境外末社でしたが、1970年(昭和45年)に独立しています。
両社は、ともに旧扇ガ谷村内にあり、源氏山を挟んで反対側に鎮座するという位置関係です。知名度も参拝客数も圧倒的に銭洗弁財天宇賀福神社のほうが上で、それは昭和期も同じだったはずですが、あくまで扇ガ谷村の村社は八坂大神だったという上下関係の名残りと言えるでしょう。