鎌足稲荷神社(鎌足稲荷社)は、鎌倉・浄明寺にある浄妙寺東方(境内右後方)の裏山に鎮座する、飛鳥時代に日本の政治を天皇中心とするよう定めた改革「大化の改新」で中心的な役割を果たした、藤原鎌足(中臣鎌足)ゆかりの神社です。
東国に向かっていた藤原鎌足は、その途中、相模国・由井の里(現在の由比ガ浜周辺)に宿泊したと言います。そのときに見た夢のお告げにしたがい、鎌足はこの地に鎌槍を埋納しました。そこに祠を建てて祀ったのが、鎌足稲荷神社のはじまりとされています。
藤原鎌足が鎌槍を埋めたことが「鎌倉」という地名の由来だとする説もあります。(「鎌倉」の地名の由来については複数の説があります)
| 主祭神 | 稲荷大神 |
| 旧社格等 | ― |
| 創建 | 不詳 ※伝646年(大化2年)以降 |
藤原鎌足は、多くの公家を生み出した藤原氏の始祖です。奈良時代に鎌倉を治めていたとされる染屋太郎時忠(染谷太郎時忠)は、藤原鎌足の子孫だとされています。染屋時忠は「鎌倉の始祖」とも言われるような豪族で、甘縄神明神社や六国見山など鎌倉のさまざまな場所にその痕跡がみられますが、詳細な記録は残っていません。
鎌倉というと、その歴史は、源頼朝やその祖先である河内源氏との関わりから語られることが多いですが、地名の起こりに関する伝承が残るなど、それより前の時代は、藤原氏とのゆかりが深い土地でした。
「鎌倉」の地名の由来になったとされる藤原鎌足の鎌

鎌足稲荷神社の由緒によると、藤原鎌足は、幼いころ、稲荷大神から鎌を授けられ、お護りとして身に付けることで大神のご加護を得ていたと言います。
646年(大化2年)、東国に向かっていた藤原鎌足は、由井の里に宿泊しました。その夜、鎌足の夢枕に稲荷大神が現われ、蘇我入鹿討伐という宿願を成しとげたのだから、授けた鎌をこの地に奉納しなさいと告げました。鎌足はそのお告げにしたがい、鎌を埋納したと言います。
大倉の松岡など諸説ある鎌足の鎌埋地

この鎌埋地については諸説あります。江戸時代前期に編さんされた地誌「新編鎌倉志」によれば、藤原鎌足が鎌を埋めたのは大倉の松岡で、鶴岡八幡宮の裏山にあたる大臣山だと言います。
「新編鎌倉志」の「浄妙寺」の項には、浄妙寺の鎮守として稲荷社の記載があります。しかし、この稲荷社は浄妙寺の「西」の岡にあるとされ、添付の絵図にもそのように描かれています(杉本寺との間)。現在その場所には、稲荷社は存在しません。(現存する熊野社は、本文にも絵図にも、別途記載があります)
鎌足稲荷神社は浄妙寺の「東」にあたることから、この浄妙寺の鎮守の稲荷社とも、もちろん、大倉の松岡とも、別の場所ということになります。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」でも、概ね「新編鎌倉志」にそった内容となっています。「新編鎌倉志」との大きな違いは、浄妙寺の、荒神、不動を安置する本寂堂に、大織冠鎌足木像も置かれていることが、絵図付きで紹介されていることです(「大織冠」とは飛鳥時代の冠位の最上位で、授けられたのは藤原鎌足だけ)。
このことから、大倉の松岡以外にも、浄妙寺またはその周辺には、藤原鎌足にまつわる伝承が伝えられていたことが分かります。鎌足稲荷神社も、「新編鎌倉志」や「新編相模国風土記稿」にはその記載が見られないものの、ひっそりと土地の人によって祀られ続けていたのかもしれません。
現在、浄妙寺境内には、藤原鎌足ゆかりの「鎌足桜」(千葉・木更津(旧鎌足村)原産の八重桜)も植えられていて、毎年、ソメイヨシノが葉桜になるころに、見ごろを迎えます。

鎌足稲荷神社のアクセス方法

鎌足稲荷神社は少し分かりにくい場所に鎮座しています。浄妙寺境内から直接アクセスすることはできません。
鎌足稲荷神社までのアクセスは、まず、浄妙寺の山門下から境内右側に続く道を進みます(上の写真の右前方)。境内を左手に見ながら道なりに歩いて行くと、右側に階段が現われます。長く続くこの階段を登って行くと、山の中腹に鎌足稲荷神社の小さな祠が鎮座しています。
この山上が鎌埋地だという伝承もありますが、現在、参道はこの祠で途切れています。


鎌足稲荷神社周辺の見どころ





