阿仏尼は鎌倉時代中期の作家・歌人です。藤原定家の子・藤原為家の側室で、冷泉家初代の冷泉為相の実母です。
代表作に、「十六夜日記」、「うたたね」などがあります。歌人としては、「続古今和歌集」など複数の勅撰和歌集に入選しています。
藤原定家は「源氏物語」などの古典を書写して、整理したことでも知られていますが、阿仏尼もまた、後年「阿仏尼本源氏物語」と呼ばれることになる写本を作成していて、文学研究家といった側面も持っていました。
鎌倉への紀行文と鎌倉での滞在記からなる「十六夜日記」
夫である藤原為家の死後、播磨国細川荘(現在の兵庫県三木市)の相続をめぐって、阿仏尼の実子である冷泉為相と正妻の子・二条為氏との間で争いが発生しました。阿仏尼はこの所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京から鎌倉へ下りますが、このときの紀行文と鎌倉での滞在記からなる日記が「十六夜日記」です。
阿仏尼は、鎌倉では、極楽寺近くの月影ヶ谷または西ヶ谷の月影地蔵堂付近に住んだとされています。
鎌倉へ向かったのは60歳近くになってからと言われていて、わが子を助けるためとはいえ、この時代の女性の行動力もうかがい知れます。
阿仏尼は、若いころの失恋の経験を「うたたね」という日記にまとめたり、藤原為家の側室となる前に別の愛人との間に子をもうけるなど、特に自由奔放な生き方をしてきたから成しえたということもあるのかもしれませんが、武力による争いが注目されがちな鎌倉時代において、「筆」も十分強い武器であったのでしょう。
この所領紛争は、阿仏尼・冷泉為相側の勝訴となりますが、阿仏尼はその結果を見る前に亡くなりました。
阿仏尼の墓は、鎌倉・扇ガ谷の英勝寺の境内にあります。境内ではありますが、門の内側ではなく、門の前の通り沿いに建っています。
江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」には「阿佛卵塔跡」という項目が見られることから、この時点では阿仏尼の墓は失われていて、現在の墓は江戸後期以降に建てられたものと考えられます。
所領紛争の当事者である冷泉為相も母・阿仏尼の後を追って鎌倉に住まうようになり、為相もまた鎌倉で亡くなりました。
冷泉為相の墓は、阿仏尼の墓と同じ扇ガ谷にある、浄光明寺の裏山にあります。