大長寺は、鎌倉・岩瀬にある、後北条氏や徳川家康とゆかりの深い寺院です。境内では、徳川家の家紋「葵の御紋」が随所で見られます。
開基の北条綱成は、戦国時代から江戸時代初期にかけて現在の大船駅の西側にあった玉縄城の第3代城主で、後北条氏一門の玉縄北条家に養子として入った武将です。
このため、後北条氏とのゆかりも深く、境内には、北条綱成の正室・大頂院の墓など、後北条一族の墓と伝わる石塔5基も残されています。
山号 | 亀鏡山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1548年(天文17年) |
開山 | 感誉存貞 |
開基 | 北条綱成 |
INDEX
徳川家康の亀は大長寿という鶴の一声で変わった寺名
大長寺ははじめ、北条綱成の正室・大頂院の法号に見られるように、「大頂寺」として創建されました。しかし、徳川家康によって「大長寺」と寺名が変更になったと伝えられています。
1590年(天正18年)、玉縄城・城主が北条綱成の3代後の氏勝の時代、豊臣秀吉による小田原征伐により、後北条氏の本拠地・小田原城の支城だった玉縄城も豊臣方の徳川家康の家臣・本多忠勝らに包囲されました。
このとき、大頂寺(大長寺)の住職だった源栄は徳川家康からの内命を受け、大頂寺と同じく北条綱成が開基の大応寺(現・龍宝寺)の住職らとともに城主・北条氏勝を説得し、玉縄城は降伏・開城されました。大頂寺や大応寺が玉縄北条家の菩提寺であったことや、大頂寺の住職・源栄が三河の徳川家の菩提寺・大樹寺(現在の愛知県岡崎市)で修業していた際に家康と面識があったこと、時の後北条宗家(本家)当主・北条氏直が家康の娘婿(氏直の正室が家康の次女・督姫)だったことから、このような交渉が比較的スムーズに行われたと考えられます。
大頂寺が大長寺となったのはこの小田原征伐の後のことで、大頂寺の山号が亀鏡山と聞いた徳川家康が、亀は大長寿なるべしと言ったため、寺名を「大長」寺に改めたと言います。
徳川家康と源栄の親交
大長寺の源栄はその後も、後北条氏の関東の所領を受け継いだ徳川家康が、この近くで鷹狩りを催したり鎌倉の近くを訪れた際に法義をするなど親交があったようで、家康からは寺の諸堂の修繕費を賜ったという記録も残っています。このため、源栄は大長寺の中興と見なされています。