平潟湾プロムナードは、京急線・金沢シーサイドラインの金沢八景駅近くから約1km続く遊歩道です。その名前のとおり平潟湾に面していて、湾の最奥に鎮座する琵琶島神社付近から、野島に架かる夕照橋まで続いています。
金沢八景駅寄りの遊歩道は、上空に金沢シーサイドラインの高架橋が屋根のように架かっています。六浦川に架かる八景橋付近で、金沢シーサイドラインは平潟湾を横断するかたちで野島公園駅方面にそれて行きます。八景橋付近から夕照橋までは、上空が開けた遊歩道が続いています。
平潟湾は狭いこともあり、特別景色が良いというわけではありませんが、ところどころにベンチもあり、水辺のお散歩コースとしては穴場的な場所です。
江戸時代までの平潟湾周辺は、『金沢八景』にも選出される、景勝地として知られていました。『金沢八景』のうち、「平潟落雁」と「野島夕照」の2つは、現在の平潟湾プロムナード周辺の景観とされています。
歌川広重 「金沢八景」にも描かれたかつての景勝地
平潟湾プロムナードの金沢八景駅寄りには、『金沢八景』の浮世絵と解説が書かれた8つのベンチが設置されています。
現在の平潟湾プロムナードは遊歩道沿いに植えられている南国風の街路樹も手伝って当時の面影は感じにくくなっていますが、浮世絵師・歌川広重の『金沢八景』を題材にした浮世絵にも描かれているような小さな漁船と野島が往時の姿をしのばせてくれています。
鎌倉の外港や塩田として栄えた六浦津
現在の平潟湾周辺は、中世より「六浦津」や「六浦湊」などと呼ばれる、鎌倉の外港として栄えてきました。鎌倉の海は遠浅で直接外海に面しているため、大型の船の航行には適しておらず、平潟湾周辺は鎌倉における交易のための港として機能していました。
同時に、「六浦」は、幕府が置かれて一大都市となった鎌倉に塩を供給するための、重要な塩の製造拠点でもありました。鎌倉は相模湾側にあり、六浦は東京湾側のため、行き来をしやすくするように、三浦半島の中央に朝夷奈切通(朝比奈切通し)が整備されましたが、この鎌倉へ通じる六浦道(現在の金沢街道)は塩の道でもありました。
江戸時代に新田開発がはじまるまでの平潟湾は、南北に今よりもずっと広い湾でした。北側は現在の洲崎町や平潟町一体、南側は侍従川流域の柳町や関東学院大学・金沢八景キャンパス周辺までが湾内でした。
また、現在の金沢八景駅から金沢文庫駅にかけての広範囲も、平潟湾から海水が注ぐ入り江または湿地帯になっていました。この平潟湾の北側一帯は、江戸時代前期の1668年(寛文8年)、江戸幕府の儒官であった永島祐伯が埋め立てを開始し、後に永島祐伯の号である「泥亀」から泥亀新田と呼ばれるようになりました。
明治末に製塩地整理法が施行されると、約600年に渡って続いてきた平潟湾周辺の塩田も廃止され、江戸時代に開発された新田とともに埋め立てが進み、住宅地や学校、工業団地、行政施設などに生まれ変わっていきました。