住吉神社は、逗子・小坪の字飯島の鎮守で、戦国時代の武将・三浦道寸(義同)ら相模三浦一族と、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏との戦いの舞台の一つになった山城・住吉城跡(住吉城址)に鎮座しています。かつては「住吉明神社」と呼ばれていました。住吉神社の境内は、小坪飯島公園近くの正覚寺の境内を登った先にあります。
主祭神 | 大綿津見神 |
旧社格等 | ― |
創建 | 不詳 |
INDEX
住吉城の城名のもとになった住吉明神
住吉神社の創建年や由緒などは分かっていません。住吉神社は「海の神様」を祀っているため、相模湾に面していて水軍の基地も兼ねていたと考えられる三浦道寸の城(道寸の弟・道香の城であったと見る向きもあります)に勧請されたか、小坪・飯島の漁村の鎮守として勧請されたか、ということであったと考えられます。
住吉城跡は、江戸時代ごろまでは主に「三浦道寸城跡」などと呼ばれていましたが、「住吉城跡」と呼ばれるようになったのも、住吉神社(住吉明神社)に由来するものであると考えて間違いないでしょう。
住吉神社境内に残る「くらがりやぐら」
住吉神社の境内はごく狭いもので、そこに、小さな社殿と石祠、そして裏山の奥へと続く素掘りのトンネル(反対側は私有地のため立入禁止)が口を開けています。
江戸時代後期に編さんされた「新編相模国風土記稿」には、小坪・飯島の鎮守としてだけでなく、かつては「郡中の総鎮守」だったと記されていますが、そのような面影は見ることができません(ここで言う「郡中」がどこを指すのかにもよりますが、事実かどうかも疑わしいところです)。
住吉神社の周辺では、素掘りのトンネルの他にもやぐら(中世の横穴式の墳墓、または供養の場)のような横穴がいくつも確認されています。
江戸時代前期に成立した地誌「新編鎌倉志」には、「切抜の洞二十余間ありて、寺へ抜通なり」とあって、岩屋を指して「くらがりやぐら」と呼ばれていることを紹介しています。「切抜」とは、トンネルや切通しのような、人工的に開削された道のことです。
江戸時代後期に成立した地誌「鎌倉攬勝考」では、住吉神社の境内から山中を切り抜いた洞口を「大手口」と呼び、おそらく「新編鎌倉志」を踏襲するかたちで、土地の人は「くらがりやぐら」と呼んでいたことが記されています。
住吉神社(小坪)周辺の見どころ
現在、住吉城跡(住吉城址)の大部分は私有地のため、住吉神社境内周辺以外は見学することができません。開発によって遺構の多くも失われているものと考えられます。