源義朝は、平安時代後期に活躍した武将で、河内源氏第6代棟梁です。鎌倉幕府初代征夷大将軍となった源頼朝や範頼、義経らは、義朝の子です。
義朝は、平治の乱で平清盛率いる平家軍に敗れると、京から東国に向けて敗走する途中、家人に裏切られて殺害されたと伝えられています。
それからおよそ20年後、平家追討を実現し、父・義朝の敵討ちを果たした源頼朝は、義朝の菩提を弔うため、鎌倉に勝長寿院(別名、大御堂または南御堂)を建立します。
勝長寿院が廃寺となった後も、その跡地には源義朝とその郎等・鎌田政家(政清)の首塚とされる五輪塔が残されていましたが、それも、昭和期の宅地開発によって姿を消すことになりました。
しかし、それを深く残念に思った大御堂ヶ谷(かつて、勝長寿院があった谷戸)の住民らによって、1984年(昭和59年)に供養塔が再建されました。
現在、この源義朝公主従供養塔は、大御堂ヶ谷の住宅地の一角に、勝長寿院の旧跡碑と並んで建っています。
INDEX
後の鎌倉幕府創設につながる義朝の死と頼朝の助命
源義朝は、少年期を房総半島の上総国で育ったとされていて、南関東を拠点に、次第に、上総氏や三浦氏などの東国の有力な武士団を束ねる存在になっていきました。このとき、義朝は、後に頼朝も同じことをくり返すことになる、河内源氏第2代棟梁の源頼義以来、先祖代々ゆかりの地である、鎌倉入りを果たしています。
源義朝は、鎌倉に入る前、鎌倉からもほど近い逗子の沼浜(現在の逗子市沼間)に館を構えますが、鎌倉入り後は亀ヶ谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)を本拠地としました。この亀ヶ谷の館跡は、源頼朝の死後、北条政子が頼朝の菩提を弔うため、寿福寺を創建しています。
また、沼浜の義朝の館跡と推定される場所は、桐ヶ谷歴史庭園として一般に公開(曜日限定)されています。
その後、源義朝は京に拠点を移します。1156年(保元元年)に発生した後白河天皇方と崇徳上皇方による朝廷内の内部抗争・保元の乱では後白河天皇に味方し、後白河天皇方の主力として勝利に導きました。
しかし、1160年(平治元年)にやはり朝廷内の内部抗争に端を発した平治の乱では、平清盛が推す勢力に敗れ、義朝は郎等の鎌田政家らとともに京から東国に向けて敗走しますが、尾張国で家人に裏切られ、殺害されました。
このとき、源頼朝は義朝と別行動をとっていましたが、捕らえられ、後に伊豆国へ流罪となりました。
義朝方として東国から駆けつけていた上総広常や三浦義澄らも別行動で落ち延びますが、彼らは京から所領に無事たどり着くことができました。
平治の乱の勝利により、平清盛ら平氏一門の栄華は最盛期を迎えることになります。
一方で、源頼朝や東国武士たちは、不遇の時代を過ごすことになるものの、ここを生き延びたことで、後の鎌倉幕府創設につながっていくことになります。
平家討伐後、勝長寿院で執り行われた源義朝らの追善供養
1180年(治承4年)、源頼朝は流刑先の伊豆国で平家討伐の兵を挙げると、頼朝の監視役だった北条氏や、父・義朝の時代から縁の深い三浦一族など東国の武士団の協力を得て、鎌倉を本拠地に平家方を追い込んでいきます。
1185年(文治元年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追いやると、頼朝は父・義朝の亡骸を探し出してもらうよう院政を行っていた後白河法皇に依頼します。鎌倉へ届けられた、京で探し出された義朝と、義朝の乳兄弟で忠臣だった鎌田政家の首は、義朝を葬るため頼朝によって建立された勝長寿院に埋葬されました。
勝長寿院の落慶供養に先立って執り行われた、この源義朝と鎌田政家の追善供養では、義朝・頼朝らと同じ河内源氏の、平治の乱を義朝らと戦った平賀義信や父が義朝の身代わりとなって討ち死にした源頼隆ら、とくに義朝とゆかりの深かった平治の乱関係者のみが頼朝から参列を許されました。
このように、源頼朝は、同門の河内源氏の一族を重要視する一方、平家討伐に貢献した弟・源義経の鎌倉入りを拒んだり、多くの御家人が名を連ねた勝長寿院の落慶供養では義経の縁戚であることを理由に河越重房を列席者から外したり、とくに同世代の兄弟や近親者には排除に近い待遇をする傾向もみられました。
この後、鎌倉幕府の源氏将軍が3代で途絶え、最盛期の平氏一門ほど栄華を極めたように見えないのは、平家討伐や父・義朝の供養という大きな目標を達成し、守りの姿勢に入ってしまったからなのかもしれません。