妙長寺は、若宮大路の東側を並行して走る小町大路沿いに建つ日蓮宗の寺院です。境内の前に建つ日蓮聖人の銅像が目をひきます。
現在の妙長寺は材木座の海岸線から離れた場所にありますが、以前は由比ヶ浜の沼ヶ浦(現在の材木座海岸近く)にありました。
沼ヶ浦は、1261年(弘長元年)、日蓮宗の宗祖・日蓮が、伊豆流罪(伊豆法難)の際に鎌倉から伊豆・伊東に向けて出港した場所です。その際、日蓮は、伊東沖の俎岩に置き去りにされましたが、地元・川奈の漁師・舩守弥三郎に救われました。
この漁師の子で日蓮の弟子となった日実が、鎌倉の伊豆法難ゆかりの地である沼ヶ浦に堂宇を建立したのが妙長寺のはじまりと伝えられています。
山号 | 海潮山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 三宝祖師 |
創建 | 1299年(正安元年) |
開山 | 日実 |
開基 | 不詳 |
妙長寺は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家・泉鏡花ゆかりの寺院です。境内の前には妙長寺と泉鏡花に関する文学案内板が掲げられています。
泉鏡花は、尾崎紅葉に弟子入りしようと上京しましたが、その直前の1891年(明治24年)7月・8月の2か月間、妙長寺に滞在していました。1898年(明治31年)に発表した短編小説「みだれ橋」(後に 「星あかり」 と改題)は、妙長寺に滞在した経験をもとに書かれた作品です。「みだれ橋」という題名は、妙長寺のすぐ近くにある鎌倉十橋の一つ乱橋、もしくは、かつて妙長寺周辺にあった「乱橋」(乱橋村、乱橋材木座村)という地名に由来します。
INDEX
津波の被害によって現在地に移ってきた妙長寺
その後、妙長寺は、津波によって堂宇が流出したため、材木座海岸から1kmほど内陸にあたる現在地の、円成寺(圓成寺)跡に移ってきたと言います。妙長寺は、その山号「海潮山」が示すとおり、海のすぐ近くにあったと見られ、被害も大きかったものと思われます。
円成寺は、江戸時代前期の寛文の頃に、不受不施義(日蓮の教えの一つで、法華経を信仰しない者から施しを受けず供養も施さないこと)を唱えたことによって廃絶したとみられています。
伊豆法難ゆかりの相輪塔と石舟
鎌倉の伊豆法難ゆかりの地である妙長寺の境内には、伊豆法難記念相輪塔が建っています。また、相輪塔のたもとには、石造の法難御用船も置かれています。
法難御用船は、伊豆法難の際に日蓮が乗った鎌倉幕府の御用船を模したもの(6分の1の縮尺)で、出港の際、弟子の日朗がお供しようと願いでたもののかなわず、幕府の役人に船をこぐ櫂で打たれて右腕を骨折させられたという逸話が残されています。
鱗供養塔と石塔婆
伊豆法難記念相輪塔と法難御用船のとなりには、鱗供養塔が建っています。
鱗供養は、鮮魚を扱う者とともに海の生き物への感謝と、豊漁と海の安全を祈願するための法要です。妙長寺の住職が材木座海岸沖合の船上で読経し、生きた魚たちを海に放ち慰霊する放生会も行われます。この妙長寺の鱗供養は明治にはじまり、一度途切れましたが、百年祭を機に鎌倉魚商組合によって再開され、以後10年に1度執り行われています。
鱗供養塔の石塔婆は、妙長寺檀家の草柳家によって建立されたもので、現在の石塔婆の建立への建て替えも当家によって行われています。
浄い修行の菩薩・浄行菩薩
妙長寺の本堂の前には浄行菩薩が安置された小さなお堂があります。浄行菩薩は、「浄い行い(きよいおこない)」浄い修行の菩薩で、汚れを洗い清めて、心身が澄み、美しく清らかになる徳があると言われています。
古来より、参拝者は、浄行菩薩像の身体をなでたり水をかけたりして洗い清めながら、自分の身体の良くないところが治るようにお祈りしたと言います。
水に関係のある菩薩様が祀られているのが、水と関係の深い海潮山妙長寺ならではです。