五所神社は、1908年(明治41年)に、旧乱橋村と旧材木座村にあった5ヵ所の神社を合祀して、旧乱橋村の鎮守・三島神社があった場所に、旧材木座村の鎮守・諏訪神社の本殿を移築して、1908年(明治41年)に創建された神社です。
乱橋村と材木座村は1888年(明治21年)に合併して乱橋材木座村となり、その翌年には、長谷村・坂ノ下村・極楽寺村と大町村の一部と合併して、西鎌倉村大字乱橋材木座となりました。さらに、1894年(明治27年)には、西鎌倉村は東鎌倉村と合併して鎌倉町(現在の鎌倉市の大部分)となりました。
現在は、鎌倉市大字乱橋材木座の大部分は、戦後に実施された住居表示によって鎌倉市材木座となっています。
旧諏訪神社の本殿は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災による山崩れによって全壊してしまったため、現在の社殿は1931年(昭和6年)に再建されたものです。
五所神社の決して広いとは言えない境内には、このような震災による被害を免れた、合祀された5社ゆかりのお神輿や古祠、石碑、文化財などが、現在も所狭しと祀られています。
五所神社の参道は桜並木になっていて、鎌倉の中では落ち着いてたのしめるお花見スポットです。
主祭神 | 天照大神 素戔嗚尊 大山祇神 建御名方命 崇徳院霊 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1908年(明治41年) ※五社合祀の年。それぞれの創建年は不詳。 |
祭礼 | 1月11日 汐まつり【浜神楽・どんどん焼き】 4月15日 祈年祭 6月第2土曜日・日曜日 宵宮祭・例大祭 例大祭三日目(火曜日)【三ツ目神楽】 11月24日 新嘗祭 ※実際の日にちは年によって異なる場合があります |
明治期までは、村持ちの神社や寺院の鎮守など町中には神社が今よりも多くありましたが、一村一社政策や明治の大合併、町村制施行などによって、集約されていくことになりました。
五所神社は、そのような近代の歴史が、境内に集められた合祀された各神社の文化財や旧村の道端にあった石碑などで見られるとともに、その名前にストレートに表現されている神社です。
大きめな一つの神社に吸収合併のようなかたちで合祀されることが多いなか、実情は分かりませんが、わりと対等に近い合祀に見えるのも五所神社ならではと言えます。
INDEX
5ヵ所の神社が合祀された材木座の鎮守
五所神社は、旧乱橋村の鎮守・三島神社があった場所に、旧材木座村の鎮守・諏訪神社、旧乱橋村・能巌寺部落の八雲神社と金毘羅宮、旧材木座村・中島部落の見目明神(視女八坂社)の4社を合祀して創建されました。5社それぞれの創建年などの詳しい由緒は不詳です。
三島神社(三島社、乱橋村持)や諏訪神社(諏訪社、補陀洛寺持)、見目明神(牛頭天王見目明神合社)は、江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」でもその名前が見られますが、やはりその詳細までは確認できません。
各神社から集められた神輿と五所神社の祭礼
五所神社には、合祀された際に、各神社の神輿も集められました。境内の神輿庫には、これらの三基の神輿が鎮座しています。
いずれの神輿も、江戸時代後期の1847年(弘化4年)に、材木座・光明寺門前の大工と、扇ガ谷の仏師によって造られたものです。
五所神社がある材木座では、お神輿のことを「お天王様」と呼んでいたことから、神輿庫は天王堂とも呼ばれています。
旧諏訪神社の神輿の一番様
「一番様」と呼ばれる神輿は旧諏訪神社のもので、屋根には、信濃国・諏訪大社の神紋である梶の葉紋が見られます。この「一番様」は、他の神輿と比べて規模が大きく、江戸時代後期の建築形式をよく留めていることから、鎌倉市の有形民俗文化財に指定されています。
旧牛頭天王社の神輿の二番様と旧見目明神の神輿の三番様
「二番様」と呼ばれる旧牛頭天王社の神輿と「三番様」と呼ばれる旧見目明神の神輿は、屋根に輪宝紋が見られます。
五所神社のお祭り
五所神社では、例年、6月の第2土曜日・日曜日に宵宮祭・例大祭が執り行われています。
宵宮祭では夜に灯りを燈したお神輿が材木座の町内を巡行します。翌日の例大祭では、材木座の町内を巡行した後、材木座海岸で海上神輿渡御も行われます。
鎌倉時代に人工の港・和賀江嶋(和賀江島)が築かれるなど、材木座は海とは切っても切れない関係にありました。遠浅の材木座海岸の沖合に築かれた和賀江嶋は、当初は幕府を支えるための貿易を担う港だったようですが、鎌倉幕府滅亡後は、漁業の拠点として使われるようになっていったとみられています。
毎年1月11日には、新しい年の豊漁と海の安全を祈願する神事「潮神楽(汐まつり)」が執り行われます。材木座海岸の砂浜にて、海に向かってつくられた祭壇に、魚などの海の幸、野菜やみかんなどの山の幸、御神酒などがお供えされ、釜に潮を汲んでわかす湯立神楽(鎌倉神楽)が奉納されます。
また、「潮神楽(汐まつり)」の後には、お正月飾りを焚き上げる「どんどん焼き」も行われます。
同じ日には、由比ヶ浜を挟んで材木座海岸の対岸にあたる坂ノ下海岸でも「汐まつり」が行われます。
また、同じ相模湾に面する葉山エリアでも、同じ1月11日に、豊漁と海の安全を祈願するお祭りが行われています。
新旧2対の狛犬が迎えてくれる桜並木の五所神社参道
五所神社の参道は、民家が建ち並ぶ中、通っています。コンパクトな神社境内の大きさに対して長い参道には、新旧2対の狛犬が鎮座しています。
この参道沿いは桜並木になっています。桜のトンネルになるほどのボリュームはありませんが、桜の季節はどこも大混雑する鎌倉の中では、静かにたのしむことができるお花見スポットです。
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五所神社のその他の見どころ
板碑(弘長二年銘・不動種子刻)
鎌倉時代中期の弘長2年(1262年)の銘がある、雲母片岩でできた石造板塔婆です。彫り込まれている文字は、剣に巻き付いた龍を表現した大日如来を表わしていると言います。
この板碑は、かつて材木座公会堂付近にあった、不動明王を本尊とする感応寺(感應寺)境内に建っていたものです。明治初期に感応寺が廃寺となったため、五所神社創建の際に移されました。
このように完全な状態で保存されている中世の板碑は非常に貴重なもので、1941年(昭和16年)に国の重要美術品に、1971年(昭和46年)には鎌倉市の有形文化財に指定されています。
三光尊石上稲荷(石上さま)
三光尊石上稲荷は、かつては、材木座海岸に注ぐ豆腐川の河口に鎮座していた石祠です。三光尊石上稲荷に祀られている「石上さま」は、漁師の網を切ったり、船を転覆させたり、海水浴客を溺れさせるといったいたずらをする石だったそうですが、近くの陸に引き揚げられて海上安全の守護神として祀られるようになったと言います。その後、後継者がいなくなったため、五所神社に祀られるようになりました。
庚申塔群
境内の片隅には、明治9年(1876年)の法令によって旧乱橋村と旧材木座村の道端や辻から集められた、帝釈天、阿弥陀如来、猿田彦神、青面金剛像などの庚申塔が建っています。
疱瘡ばあさんの石
かつては見目明神の境内にあったもので、疱瘡(天然痘)から身体を守るために、この石に身体をこすりつけて祈念していたと伝えられています。
諏訪神社(お諏訪さま)
五所神社の創建後、旧諏訪神社の跡地に祀られていた祠です。お祀りする後継者がいなくなったため、五所神社境内に移されました。
山岳信仰道場
五所神社の裏山を少し登った場所には、山岳信仰の石碑が建てられています。