来迎寺は、鎌倉幕府創設の礎となった三浦大介義明の霊を弔うために、源頼朝が開基となって能蔵寺を建立したのがはじまりです。はじめは真言宗の寺院でしたが、頼朝の死後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名しました。
本尊の阿弥陀如来(弥陀三尊)は、三浦義明の守護仏と伝わるものです。
境内には、三浦義明の像の他、三浦義明の墓と伝わる五輪塔があります。本堂の裏手には、三浦義明の家来あるいは三浦一族の墓とされる100基あまりの五輪塔が並んでいます。
また、来迎寺は鎌倉三十三観音第14番札所で、子育て観音がまつられています。この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子どもを授かるとして、古くから信仰されています。
山号 | 随我山 |
宗派 | 時宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1194年(建久5年) ※前身の能蔵寺の創建年 |
開山 | 不詳 |
開基 | 源頼朝 |
鎌倉には「来迎寺」という寺院が2つあります。もう一つの来迎寺は、源頼朝法華堂跡(源頼朝の墓)に近い、西御門にあります。西御門の来迎寺には、明治の神仏分離令まで源頼朝法華堂に安置されていたとされる3体の仏像があり、どちらの「来迎寺」も源頼朝にゆかりがある寺院です。
INDEX
三浦大介義明と多々良三郎重春の墓
三浦義明は、1180年(治承4年)に源頼朝が平家討伐のため挙兵するとこれに呼応し、一族をあげて頼朝に加勢しようと、自らの子である義澄らを派兵しました。しかし、大雨による川の増水により足止めにあい、引き返すことを余儀なくされます。その途中、三浦一族の軍は平家方の畠山重忠らと戦闘になり、最終的に、本拠地である衣笠城を包囲されてしまいます。
畠山重忠ら平家方との兵力の差は歴然であったため、三浦義澄ら一族を源頼朝と合流させるために、老齢の義明はひとり衣笠城に残り、捨て石となりました。
石橋山の戦いで惨敗した源頼朝でしたが、無事に三浦義澄らと合流し、次々に東国の武士を味方につけながら勢力を拡大し、平家を滅ぼし、最終的には鎌倉に幕府を開きます。
源頼朝は、自らの命と引き換えに窮地を救ってくれた三浦義明に礼を尽くすかたちで、来迎寺の前身である能蔵寺を建立しました。
来迎寺の境内には、三浦義明と多々良三郎重春の墓と伝わる五輪塔がのこされています。多々良三郎重春は、源頼朝の最初の挙兵時に衣笠城へ戻る途中、小坪合戦(由比ヶ浜の戦い)で、17歳という若さで戦死した三浦一族の武士です。この2つの五輪塔は、三浦義明とその妻の墓とする説もあります。
来迎寺と同じように、源頼朝が三浦義明の霊を弔うために建立した寺院として、三浦一族の本拠地であった衣笠城の近くに満昌寺があります。満昌寺にも三浦義明のものと伝わる墓があります。
三浦大介家来の墓
来迎寺の本堂の裏手には、三浦義明の家来の墓、あるいは三浦一族の墓と伝わる五輪塔が立ち並んでいます。小さめな五輪塔ではありますが、その数は100基あまりにもなります。