和田義盛は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将で、鎌倉幕府の初代侍所別当として、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)源頼朝に側近の一人として仕えました。
源頼朝亡き後も、同じ三浦一族である三浦義澄・義村親子、北条氏らと協調して、幕府の中心で歴代の鎌倉殿を支えました。
しかし、北条氏による執権体制が固まると、次第に北条氏とも対立していくようになります。いくつかの伏線を経た後、時の執権・北条義時を打倒する兵を挙げますが、三浦義村の裏切りにもあい、和田義盛とその一族はあえなく滅亡してしまいます。
INDEX
生涯・略年表
生誕
和田義盛は、1147年(久安3年)に、三浦一族の当主・三浦大介義明の長男である杉本義宗の子として誕生しました。
幼少期
父・杉本義宗の死
和田義盛の父・杉本義宗は、戦で受けた傷が原因で、1164年(長寛2年)に死没してしまいます。
詳しい理由は分かっていませんが、杉本義宗は三浦大介義明の長男であったものの、三浦氏宗家(本家)の家督は継がずに、鎌倉の杉本城(杉本寺周辺)を本拠地にして、杉本氏を名乗っていました。代わりに三浦氏宗家を継いだのは、三浦大介義明の次男で、杉本義宗の弟である、三浦義澄です。
杉本城は三浦半島の付け根の中央部に位置しているため、陸路で半島に出入りする者を監視する拠点として適しています。また、朝夷奈峠(朝比奈峠、朝夷奈切通し)を越えれば、中世に貿易港として発達していく六浦の湊もあり、房総半島方面への拠点としても使える場所です。
杉本義宗が致命傷となる傷を受けたのも安房国(房総半島南部)での戦いで、義宗は三浦一族の領地拡大の役割も担っていたと考えられます。
和田氏の由来
そのような父の下、和田義盛が幼少期、どこでどのように暮らし、いつごろから和田氏を名乗るようになったのかは、よく分かっていません。
和田義盛の「和田」と言う姓の由来について一般的なのは、三浦半島南西部の和田(現在の三浦市初声町和田)を領地としたからというものです。三浦半島を含む相模国には、義盛の一つ上の世代に、和田太郎助弘という豪族がいました。三浦一族との血縁関係の有無は不明ですが、この和田太郎助弘と和田義盛の間に、なんらかの関係があった可能性もあります。
この他に、安房国の和田(現在の千葉県南房総市、かつての朝夷郡和田町)からとられたという見方もあります。父・杉本義宗が房総半島進出に関わっていたこと、和田義盛の三男・朝比奈義秀(朝夷名義秀)が安房国の和田を含む朝夷郡を所領として自身の名前の由来にもなったことを考えると、後者も有力な説と言えるでしょう。
なお、父・杉本義宗の本拠地であった杉本城は、義盛の弟・和田義茂が継いでいます。
青年期・壮年期
侍所別当
1180年(治承4年)、源頼朝の平家討伐の挙兵に呼応した和田義盛ら三浦一族は、衣笠城合戦に敗れますが、同じく石橋山の戦いで敗れ、逃げ落ちてきた頼朝らと安房国で合流します。
このとき、和田義盛は頼朝に、侍所別当(長官)の職を望み、この数か月後に鎌倉入りした後、現実のものとなっています。
安房国から再起をはかろうとする頼朝は、房総半島や坂東(関東)の有力な豪族を味方に付けようと画策しますが、坂東で最大の勢力をほこった上総広常のもとへは、使者として和田義盛を送ります。広常は回答を保留にしたため、頼朝のもとへ参上するようにという要請はすぐには実現しませんでしたが、頼朝の和田義盛に対する信頼度の高さがうかがえるエピソードの一つです。
十三人の合議制
その後も鎌倉殿・源頼朝の側近の一人として、侍所所司(次官)の梶原景時と共に、平家討伐・奥州征伐の軍事奉行として、鎌倉幕府の創設に大きな貢献をしました。
鎌倉幕府が成立した後も、源頼朝が上洛した際に隋兵の先陣を務めたり警護の指揮をとったりと、侍所別当として精力的な働きを見せました。
また、和田義盛は弓の名手として知られていたため、神事・祭事では射手を務めることが多くありました。
源頼朝が死没した後も、和田義盛は、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家を支える十三人の合議制のメンバーに選ばれ、有力御家人の一人として幕府を支えました。十三人の合議制には、三浦一族からは三浦氏宗家の家督を継いだ、三浦義澄も選ばれています。
この頃の和田義盛とその一族は、三浦一族の氏族ではあるものの、三浦氏宗家と肩を並べる、ある程度独立した勢力になっていたと考えられます。
和田一族の繁栄
和田義盛は三浦半島エリアを中心に、数多くの寺院を建立しています。三浦七阿弥陀堂の存在や運慶への仏像製作の依頼などが知られていますが、他の三浦一族の誰よりも信仰深かったのと同時に、財力もあったことがうかがい知れます。
和田義盛はもともと、第4代当主・三浦大介義明の長男である杉本義宗の嫡男という、本来は本家筋であったため、影響力も強かったと考えられます。また、運慶への仏像製作の依頼は、和田義盛より早い時期から運慶に依頼していて幕府の実権も握ろうとしていた北条氏への対抗心があったという見方もあります。
しかし、あからさまに北条氏と対立していたかと言えばそうでもなく、北条氏が鎌倉幕府の頂点に上りつめた背景にあった比企能員や畠山重忠などの有力御家人の排除には、三浦義村ら、他の三浦一族と同じように、和田義盛も北条氏側と歩調を合わせていました。
比企能員の変では、自らの妻と子を殺された源頼家から北条時政謀殺を命じられますが、義盛はこのことを時政に密告し、頼家の鎌倉からの追放と、時政の孫である源実朝の第3代将軍(鎌倉殿)擁立に貢献しました。
畠山重忠の乱では、北条氏方の大将の一人として畠山重忠追討の軍に加わり、和田義盛にとって祖父・三浦大介義明の仇でもあった重忠の一族滅亡に加担しました。
結婚・子孫
和田義盛の妻、または側室、側妻・妾(そばめ)、として知られている人物は、主に3人(「吾妻鏡」の誤記であれば、2人)います。
妻の小野氏
比較的信憑性が高いとされる鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では、和田義盛の妻として、武蔵国の横山荘周辺(現在の東京都八王子市周辺)を所領としていた横山党の横山時重の娘(横山時広の妹)と、豊受大神宮(伊勢神宮・外宮)の禰宜である度会康高の娘(横山権守の妹)が登場します。おそらく横山時広と横山権守は同一人物のため、「吾妻鏡」の記述に誤記があり、この2人の妻が同一人物なのか別人なのか分かりませんが、和田義盛は横山党とは深い関係にありました。その証拠に、横山党は、後年の和田合戦(和田義盛の乱)で義盛側につき、義盛と運命を共にしています。
横山党の本姓は、小野妹子や小野篁、小野小町などを輩出した小野氏とされています。和田義盛ら三浦一族の本姓は桓武平氏です。
横須賀・芦名の浄楽寺に現存する運慶が製作した仏像は、義盛夫妻が願主となって作られたものですが、胎内から見つかった銘札にはそれぞれの本姓、義盛は「平義盛」、義盛の妻は「小野氏」が記されていて、このことからも義盛の妻が横山党出身者であったことが分かります。
巴御前と朝比奈義秀の伝承
もう一人の妻とされる人物は、木曽義仲(源義仲)の愛妾であり女武者だった巴御前です。義仲が源頼朝の軍勢に敗れると、巴御前は捕虜となり、鎌倉へ送られました。その後の消息については諸説ありますが、その中の一つに、和田義盛にかくまわれた、あるいは、和田義盛の妻または側妻・妾(そばめ)になったと言い伝えがあります。鎌倉幕府で御家人を束ねる侍所別当(長官)であった義盛が、巴御前の身を預かる立場にあったことは十分に考えられます。
朝夷奈切通を一夜にして切り開いたという怪力の伝説が残る三男・朝比奈義秀(朝夷名義秀)は、巴御前の子であるという伝承もあります。
孫の和田朝盛
義秀とともに怪力が自慢だった嫡男・和田常盛の子(和田義盛の孫)には、和歌に秀でた和田朝盛がいます。そんな朝盛は、京や朝廷の文化へのあこがれが強い、源実朝の寵愛を受けていました。幕府を敵に回すことになった和田合戦を前にして、和田一族と実朝との間で板挟みとなった和田朝盛は出家することでけじめをつけようとします。しかし、そのことを知った和田義盛は、京へ向かっていた和田朝盛を呼び戻し、和田合戦では和田一族側として戦います。
晩年
上総国司を所望
和田義盛は房総半島にも所領があり、上総広常が失脚した後は、上総国(房総半島中部)の一部も領していたようです。上総国には実際に居住もしていて、自身の上総国の国司(長官)への推挙も陳情していました。上総国司は、一生のお願いというような言葉を口にするほど思いが強かったようですが、すでに執権(北条義時)や尼将軍(北条政子)として幕府の実権を握っていた北条氏の意向もあり、かなうことはありませんでした。
泉親衡の乱
1213年(建暦3年)2月、信濃国の武将・泉親衡が源頼家の遺児・千寿丸を擁立して、北条義時を打倒しようとする企てが発覚します。これに加担したとして、和田義盛の子・義直、義重と、甥の胤長が捕まりました。この泉親衡の乱では、大きな戦には発展せずに、クーデターとしては未遂に終わりました。
この事件に和田義盛が関与していたのか、していなかったのかは分かりませんが、上総国にいた義盛は鎌倉を訪れ、源実朝に許しを請います。和田義盛の子・義直、義重は許されましたが、甥の胤長は主犯格のため許されませんでした。それどころか、和田義盛一族98人がそろう前で、屈辱的な姿でさらされた和田胤長は、北条義時によって厳しく取り調べを受けるよう言い渡されました。好立地にあった胤長の屋敷も、和田義盛の懇願によって一度は一族への相続が認められたものの、北条義時によって没収されてしまいます。
この一連の動きで、和田義盛は一族の長として、源頼朝の時代から鎌倉殿に仕えてきた功績を示しつつ、自らの子や甥をかばいましたが、義盛のメンツは北条義時によってことごとく打ち砕かれてしまいました。
「吾妻鏡」によると、これらの出来事が和田義盛に挙兵を決意させたとされています。
最期
和田義盛は、同じ三浦一族で三浦氏宗家の家督を継いでいた三浦義村とも結託して北条義時の打倒を計画しますが、三浦義村が裏切り、北条義時に密告してしまいます。
1213年(建暦3年)5月、後に引けなくなった和田義盛は挙兵して、御所や北条義時の屋敷を襲いますが、2日間の戦闘の末、最期は由比ヶ浜に追い詰められて、北条義時の軍勢に敗れてしまいます。海上に逃れた義盛の三男・朝比奈義秀や戦場で行方不明となった孫の和田朝盛など一部を除いて、和田義盛とその一族は鎌倉の地で滅亡しました。義盛は、享年67でした。
略年表
西暦 | 和暦 月日 | 出来事 |
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1147年 | 久安3年 | 三浦大介義明の嫡男・杉本義宗の子として生誕。幼名は「小太郎」。 |
1164年 | 長寛2年 | 和田義盛の父・杉本義宗が死没。安房国(現在の房総半島南部)での長狭常伴との戦いによる傷が原因。
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1180年 | 治承4年 8月17日 | 【源頼朝の挙兵】 源頼朝が伊豆国で挙兵。この5日後の8月22日、和田義盛ら三浦一族も、三浦半島から出兵する。 |
8月24日 | 【小坪合戦】 和田義盛ら三浦一族は、増水のため丸子河(現在の酒匂川)を渡れず、三浦半島へ引き返す。その途中で平家方の畠山重忠らの軍勢と遭遇し戦となるが、一族の本拠地である衣笠城に帰る。 | |
8月27日 | 【衣笠城合戦】 三浦一族の本拠地・衣笠城が平家方の畠山重忠らの軍勢の攻撃により落城し、祖父・三浦大介義明が討死。 生きのびた和田義盛や三浦義澄ら三浦一族は、栗浜(久里浜)より舟で安房国に向かう。海上にて、石橋山の戦いで敗北した北条時政・義時らと合流する。
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8月29日 | 石橋山の戦いより逃れてきた源頼朝が安房国に到着する。このとき、和田義盛が頼朝に、将来の侍所別当を所望する。 鎌倉入りを果たした後の11月17日、侍所別当に補任される。 | |
9月3日 | 和田義盛の叔父・三浦義澄が、安房国で長狭常伴を襲い、破る。義盛にとっては、事実上の、父・杉本義宗の敵討ちとなる。 | |
1184年 | 元暦元年 8月8日 | 【九州征伐】 和田義盛ら、源範頼の軍勢が平家追討のため九州方面に向けて出発する。 |
1189年 | 文治5年 | 和田義盛が運慶に製作を依頼した仏像が完成。この運慶仏(5体)は横須賀・芦名の浄楽寺に現存。
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和田義盛が横須賀・長坂に無量寺を建立。無量寺にも運慶仏があったことが分かっているが、現存しない。
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文治5年 7月19日 | 【奥州征伐】 源頼朝の軍勢が、奥州征伐に出発。和田義盛もお供に加わる。 | |
1190年 | 建久元年 9月15日 | 【源頼朝の上洛(1回目)】 源頼朝の上洛にあたり、和田義盛が先陣隋兵に選ばれる。 京入り後、源頼朝が御所や寺社に参る際も、和田義盛が三浦義澄らとともに隋兵を務めている。 |
12月11日 | 和田義盛が源頼朝より勲功を称える10人に選ばれ、左衛門尉に任じられる。このとき、三浦義村も、父・義澄から譲られる形で右兵衛尉に任じられる。 | |
1194年 | 建久5年 | 和田義盛が三浦・三崎に光念寺を建立。
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1195年 | 建久6年 2月10日 | 【源頼朝の上洛(2回目)】 源頼朝の二度目の上洛にあたり、和田義盛が先陣隋兵の奉行に選ばれる。 |
3月10日 | 源頼朝の東大寺落葉供養において、和田義盛が畠山重忠とともに先陣を務める。 | |
1199年 | 正治元年 4月12日 | 【十三人の合議制】 源頼朝が死没し、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)を源頼家が継いだが、訴訟事は頼家が直接行うのではなく、有力御家人・13人の合議制で行うことを決定。三浦一族からは和田義盛と三浦義澄が就任。 |
10月28日 | 【梶原景時の変】 三浦義村が中心となり、和田義盛、三浦義澄ら、鎌倉幕府の有力御家人66人が、侍所別当・梶原景時を告発する連署状を作成して、第2代将軍(鎌倉殿)源頼家側近の大江広元に提出。梶原景時は失脚し、翌年、景時とその一族は討死する。 この事件で義盛は、連署状を頼家に提出することをためらっていた大江広元に対して、強く抗議し、催促した。 | |
和田義盛が横須賀・秋谷に正行院を建立。
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1200年 | 正治2年 1月23日 | 三浦一族の当主・三浦義澄が死没。当主は三浦義村が継ぐ。 後年、和田義盛は、父・杉本義宗と叔父・三浦義澄の菩提を弔うため、横須賀・大矢部に薬王寺を建立する。
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2月5日 | 和田義盛が侍所別当に復帰。義盛は1180年(治承4年)に初代侍所別当(長官)に任命されたが、1192年(建久3年)に侍所所司(副長官)だった梶原景時に1日だけという約束で侍所別当を貸したまま職を奪われていた。 | |
1203年 | 建仁3年 9月2日 | 【比企能員の変】 北条政子の命により、和田義盛、三浦義村ら、比企能員一族追討の軍に加わる。比企能員は北条時政に謀殺され、比企館を攻められた能員の一族は自害する。 このとき比企館にいて自らの妻と子・一幡を殺された源頼家は、侍所別当であった和田義盛に北条時政謀殺を命じるが、義盛はこれを時政に密告し、頼家は伊豆の修禅寺に追放される。
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1205年 | 元久2年 6月22日 | 【畠山重忠の乱】 鎌倉幕府初代執権・北条時政の命を受けた三浦義村らが、由比ヶ浜で畠山重忠の子・重保を殺害。その後、和田義盛や三浦義村、北条義時らは畠山重忠追討に武蔵国へ向かい、二俣川で畠山重忠らを討ち取る。これにより、畠山重忠とその一族は滅亡する。 なお、乱の発端とは直接関係ないが、畠山重忠は、義盛や三浦義村ら三浦一族にとって、衣笠城合戦で討死した祖父・三浦大介義明の仇であった。 この直後、畠山重忠排除の首謀者であった北条時政とその妻・牧の方は、北条政子・義時によって鎌倉を追放され、北条義時が鎌倉幕府第2代執権に就任。
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1206年 -07年 | 和田義盛が鎌倉・名越に来福寺を建立。後に三浦に移る。
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1209年 | 承元3年 5月12日 | 和田義盛が内々に上総国司を所望していたため、源実朝が母の北条政子に相談したところ、頼朝の時代から侍への任命はしていないと返答される。 5月23日、和田義盛は大江広元に上総国司を所望する嘆願書を提出する。 11月には、所望していた上総国司について、内々に計らいがあり、しばらく待つように言われ、大喜びする。 |
1211年 | 建暦元年 12月18日 | 和田義盛が、所望していた上総国司をあきらめ、大江広元に嘆願書の返却を求める。 |
1213年 | 建暦3年 2月15-16日 | 【泉親衡の乱】 謀反の疑いで泉親衡の仲間が捕まる。その中には、和田義盛の子・義直、義重と甥・和田胤長が含まれていた。 |
3月8日 | 和田義盛が上総国伊北庄(現在の千葉県いすみ市や大多喜町周辺)から御所に来て源実朝に面会し、これまでの功労を考え、子の義直、義重らの赦免を懇願する。 この翌日も和田義盛は一族98人を引き連れて御所を訪れ、囚人となっている和田胤長の厚免を請う。しかし、胤長は主犯格のため許されず、北条義時が山城判官・二階堂行村に厳しく取り調べるよう言い伝え、一族の前で、両手を後ろ手に縛り顔を前にさし出した状態で引き渡された。 この後、3月17日に、和田胤長は陸奥国へ配流となる。3月21日には、これを悲しんだ胤長の娘が病に伏し、死没する。 | |
3月25日 | 和田義盛が、荏柄天神社の前、御所の東隣にあった胤長の屋敷の相続を願い、認められる。しかし、4月2日に、これを北条義時に没収される。 | |
4月15日 | 和田義盛の孫・朝盛が出家して、京都へ出発する。これを義盛が怒り、呼び戻す。 和田朝盛は和歌を通じて源実朝とも親交があり、実朝も朝盛が出家したことを悲しむ。 | |
5月2日 -3日 | 【和田合戦(和田義盛の乱)】 北条義時の挑発を受けて和田義盛が挙兵した旨を、和田義盛の従兄弟であり同族の三浦義村が北条義時に告げる。 和田義盛ら和田一族が挙兵して、御所と北条義時邸を襲撃する。三浦義村も加わる幕府軍の反撃によって和田軍は由比ヶ浜に追い込まれ、安房国に逃れた朝比奈義秀らを除き、和田義盛(享年67)とその一族は討死する。
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三浦一族 家系図
和田義盛は、三浦氏宗家(本家)の初代とされる三浦為通(村岡為通)から数えて、第4代当主にあたる三浦大介義明の長男・杉本義宗の嫡男です。
義盛の生きた平安時代末期~鎌倉時代初期の三浦一族は北条氏、伊東氏と関係が深く、北条氏は源氏と結びつきが強いため、これらを合わせた家系図をご紹介します(一部省略、諸説あり)。
和田義盛の妻または側妻・妾(そばめ)になったという伝承が残る巴御前については、伝説の域を出ないため、本家系図上では表現していません。
家系図は、上下左右に続いています。ピンチイン・ピンチアウトやスワイプ/ドラッグなどのマウス操作で、拡大縮小や移動をすることができます。
和田義盛ゆかりの地
次のページでは、和田義盛ゆかりの地を紹介しています。
また、横須賀市では、和田義盛ゆかりの地も含む「三浦一族ゆかりの地散策マップ」を公開しています。横須賀市観光案内所などで入手可能な他、下記リンク先からダウンロード可能です。