無量寺は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将・和田義盛が、「三浦七阿弥陀堂」の第3番として建立した寺院です。創建当時は、運慶作の阿弥陀如来像が安置されていましたが、1669年(寛文9年)に焼失してしまいました。
「三浦七阿弥陀堂」の存在も、運慶作の阿弥陀如来像の存在も、1998年に行われた現在の本尊・阿弥陀如来像の大修復をした際に、胎内から見つかった銘札に記されていたことによって判明しました。
無量寺は、室町時代になって、鎌倉の浄智寺から中国より渡来した竺仙梵僊を招いて臨済宗の無量寿寺となりましたが、安土桃山時代に厳譽壽道が現在の浄土宗の寺院に改めました。
山号 | 金剛山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1189年(文治5年) |
開山 | 厳譽壽道 ※浄土宗への改宗時 |
開基 | 和田義盛 |
INDEX
権力の象徴でもあった鎌倉時代の仏像
無量寺からもほど近い芦名の浄楽寺には、和田義盛夫妻が願主となって製作された運慶作の5体の仏像が現存しています。一説には、義盛は、将軍家の姻戚として権力を拡大していく北条氏に対抗して、運慶に仏像の製作を依頼したとされています。
鎌倉幕府初代執権・北条時政も、自身が伊豆に開いた願成就院に安置する仏像の製作を運慶に依頼したことが知られています。
しかしながら、和田義盛は北条氏との権力争いに敗れ、1213年(建暦3年)、北条時政の子である、鎌倉幕府第2代執権・北条義時らによって、一族ともども滅ぼされてしまいました。
かつて鎌倉・扇ヶ谷にあった無量寺
無量寺には、かつて、鎌倉の無量寺谷(現在の鎌倉市扇ガ谷1丁目付近)にあった無量寿院(無量寺)の名跡を受け継いだとする説があります。鎌倉の無量寿院は、鎌倉幕府創設以来の有力御家人であり、宝治合戦で三浦一族を滅ぼした安達氏の菩提寺だったと考えられている寺院です。
そんな由緒の寺院の名を、三浦一族の和田義盛が建立した寺院が受け継いだ経緯はよく分かりませんが、和田義盛はたくさんの寺院を建立していることもあり、鎌倉から三浦に移転した来福寺や、源頼朝が鎌倉に建立した大寺院・勝長寿院と同じ院号を持つ浄楽寺など、移転や継承が謎に包まれているケースも少なくありません。
長坂は戦国時代の古戦場
無量寺のある長坂は、戦国時代、三浦道寸(義同)率いる相模三浦氏が北条早雲(伊勢宗瑞)と戦った古戦場でもあります。
現在の伊勢原市にあった岡崎城にいた三浦道寸は北条早雲に攻められ、三浦半島へと後退していきます。道寸らは逗子の住吉城で抵抗しますが、落城し、大崩、そして、ここ長坂と、三浦半島を南下しながら戦い、最終的には半島南端の油壺にあった新井城まで追い詰められます。
三浦道寸らは新井城に3年間籠城して抵抗した後、力尽き、1516年(永正13年)に一族は滅びてしまいました。
なお、北条早雲は、相模国を攻める前に、伊豆国を攻めています。このとき、北条時政が建立した願成就院も早雲に攻められ、全焼してしまいました。このときの戦火で、願成就院の本堂をはじめとした伽藍や寺宝のほとんどは失われてしまいましたが、運慶仏は僧侶によって運び出されて無事で、浄楽寺の運慶仏とともに現存しています。
無量寺周辺の見どころ
以下のリンク先からその他の【和田義盛ゆかりの地】もご覧ください