浄楽寺は、三浦一族の和田義盛が夫婦で願主となって製作された5体の運慶作の仏像を安置する寺院です。浄楽寺がある横須賀・芦名は、幕府があった鎌倉と、和田義盛の本拠地であった三浦半島南西部の和田の、中間に位置しています。
また、「日本近代郵便の父」と称される前島密が晩年別荘を構えていた場所でもあり、前島密夫妻の墓所があります。浄楽寺の境内の前には、前島密の胸像が乗った郵便ポストがあり、境内で購入した「感謝葉書」に思いをしたためて、投函することもできます。
山号 | 金剛山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀三尊 |
創建 | 不詳 (平安時代後期~鎌倉時代初期ごろ) |
開山 | 不詳 (1275年(建治元年)の中興開山は光明寺2世の良暁) |
開基 | 和田義盛 (義盛が建立した七阿弥陀堂の1つとする説による) |
運慶が製作した仏像は、真作は全国に19体しかないとされていますが、浄楽寺ではそのうちの5体(いずれも、国指定重要文化財)を一度に拝観することができます。運慶仏の拝観は、春と秋の運慶仏御開帳以外では事前予約が必要ですが、800年以上前から伝わる名作は必見です。
また、浄楽寺の境内では、毎週土曜日9:00~15:00に芦名「浄楽寺朝市」が開催されていて、新鮮な横須賀や三浦の野菜や、佐島の魚介類、三崎のまぐろなど、地元の食材やグルメが販売されていて、こちらも人気のイベントです。
INDEX
2説ある浄楽寺の由緒
勝長寿院を移したとする説
浄楽寺の由緒については2つの伝承が残されています。
一つは、1185年(文治元年)に源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために鎌倉に建立した勝長寿院(廃寺)を起源とするものです。勝長寿院は、1206年(建永元年)の台風によって堂宇が損壊し、三浦半島南西部を本拠地とする三浦一族の和田義盛と、源頼朝の妻・北条政子の手によって、この地に移されたという言い伝えです。頼朝は1199年(建久10年)に死没していて、この頃には、幕府の実権は北条政子や執権北条氏が握りつつありました。和田義盛は、頼朝から任命された、侍所別当という幕府の御家人を束ねる要職に就いていました。
浄楽寺の院号は「勝長寿院」であり、鎌倉にあった勝長寿院と何も関係がないということは考えにくいでしょう。しかし、後述する、現在、浄楽寺に安置されている、和田義盛夫妻が願主となって運慶が製作した仏像は1189年(文治5年)に完成しているため、この仏像がはじめどこに安置されていたのか、新たな謎がうまれてしまいます。
和田義盛の七阿弥陀堂の一つとする説
もう一つは、和田義盛が建てた七阿弥陀堂の一つとするものです。
和田義盛は弓矢の名手で、武芸にたけていたことで有名です。それと同じくらい知られているのが、実直な人柄だったことです。これが功を奏してか、源頼朝など、とくに歴代の鎌倉殿に慕われていたようです。ただ、そのことが死期を早めてしまう結果にもつながりました。
中世の武士にはとくにめずらしいことではありませんが、和田義盛はまた、信仰深かったことでも知られています。それを物語るエピソードが、一族の所領であった三浦半島に七阿弥陀堂を建立したというものです。
七阿弥陀堂の詳細は明らかになっていませんが、三浦半島南西部の和田の地に居館を構えていた義盛が、和田と同じ相模湾沿いの少し鎌倉寄りに北上したこの地に寺院を建立したとしても、不自然なことは何一つありません。
和田義盛夫妻が願主となって造られた運慶作の仏像
このように、浄楽寺の由緒は諸説ありますが、和田義盛が鎌倉にあった勝長寿院を三浦の七阿弥陀堂の一つとして移した、あるいは、和田義盛が建てた三浦の七阿弥陀堂に鎌倉の勝長寿院を移した、とすれば、両方正しいということにもなります。
いずれにしろ、和田義盛が関わっていたことは確実で、それは、浄楽寺に安置されている運慶の仏像の願主が、和田義盛とその妻・小野氏であることからも裏付けられています。
全国に19体しかない運慶仏の真作のうち5体を安置
運慶作の仏像と伝わるものは多く残されていますが、真作とされているものは、全国で19体しかありません。浄楽寺では、そのうちの5体、木造阿弥陀如来及両脇侍像(阿弥陀三尊像)、木造不動明王立像、木造毘沙門天立像(いずれも、国指定重要文化財)を安置されています。
通常は非公開ですが、春と秋の運慶仏御開帳か、1週間以上前に予約することで拝観することが可能です。また、不定期で、横須賀市やその関連団体などによって、運慶仏拝観を含むツアーが組まれることがあります。(雨天時は拝観中止となる場合あり)
浄楽寺の運慶仏は、一般的に運慶の作風とされている力強さは抑えられていて、穏やかな表情を見せてくれるのが特徴です。
運慶仏の拝観では、仏像が安置されている収蔵庫内は電灯もありますが、この仏像が造られた中世からつい数十年前までの人々のお参りする環境がそうであったように、人工的な灯りを落とした「暗闇参り」の時間が設けられます(拝観内容はイベントやツアーによって異なる場合あり)。
暗闇の中でも運慶仏特有の存在感の強さや彫の深さは見て取れますし、より際立って見えるようにすら感じられます。そして、なによりも、五感が研ぎ澄まされた状態になるため、仏様と一対一で会話ができているような、不思議な感覚を味わうことができます。
和田義盛が運慶仏を望んだ背景
浄楽寺の運慶作の仏像は、不動明王立像と毘沙門天立像の胎内から発見された月輪形木札から、1189年(文治5年)の作品であることが分かっています。この年には奥州藤原氏討伐(奥州合戦)が起きているため、御家人たちを束ねる侍所別当でもあった和田義盛が、この戦勝祈願のために運慶に製作を依頼したという見方があります。
また、この3年前には、北条時政が伊豆の願成就院の仏像製作を運慶に依頼していたため、これに対抗するためという見方もあります。
源頼朝と姻族関係にあり、1180年(治承4年)の石橋山の戦い以前から行動を共にしていた北条時政ら北条氏と、代々源氏に仕えてきた和田義盛ら三浦一族は、頼朝を支える同じ御家人という立場ではありますが、その中でもライバル関係にありました。
和田義盛は和田氏を名乗り三浦氏の宗家(本家)ではなく傍流(支流)とはなりましたが、頼朝の挙兵時点ではすでに死没していた義盛の父・杉本義宗は三浦大介義明の長男であったため、本来は本家筋であり、三浦一族の雄としての自負も強かったと考えられます。
以下のリンク先からその他の【和田義盛ゆかりの地】もご覧ください
「日本近代郵便の父」前島密ゆかりの寺
前島密夫妻の墓所
「日本近代郵便の父」と称される前島密は、晩年、浄楽寺の境内に別荘を構え、隠居生活を送りました。前島密は、1911年(明治44年)から暮らしたこの地で1919年(大正8年)に死没しました。
前島密夫婦の墓所は、浄楽寺境内の夫妻の富士見スポットだった高台にあり、富士山の形をかたどった墓石の上に前島密の全身像が乗った、独創性の強いデザインのものになっています。
郵便事業を確立・育成した前島密
江戸や長崎で、医学や蘭学、英学を学んだ前島密は、幕末から明治期にかけて、日本の近代化にさまざま貢献をしました。江戸遷都の建言や鉄道敷設の立案、近代的な新聞事業、陸運業、海運業の設立と育成など多岐に渡りますが、もっとも有名なのが近代的な郵便制度を確立したことです。
前島密が建議した政府の郵便事業は1871年(明治4年)より開始し、その前年より郵政の長に就いていた前島は、その後も11年に渡って事業の育成にあたりました。「郵便」や「切手」「葉書」という名称も、前島密が定めた言葉です。
中世から明治初期までは、飛脚便が郵便の役割を担っていましたが、全国的に統一されたネットワークや切手や葉書、ポストといった近代的な郵便制度は存在しませんでした。また、海外と郵便物を送達する制度も、確立されていませんでした。
幕末には、横須賀製鉄所の建設に尽力した小栗上野介(小栗忠順)も郵便制度を発案していましたが、幕府の強硬派だった小栗は徳川慶喜の大政奉還によって失脚し(後に新政府軍によって斬首)、実現しませんでした。
三浦半島の西海岸にある浄楽寺の前島密像は相模湾を向いて建っていますが、三浦半島の反対側の東海岸にあるヴェルニー公園では小栗上野介像が東京湾を向いて建っています。
明治期に前島密によって確立された郵便制度は、その後も発達を続けていきましたが、1990年代に商用化され急速に普及していったEメールや携帯電話の登場や、働き方改革の推進などによって、2021年10月から普通郵便の土曜配達が休止、2022年1月からは配達日数の繰り下げが行われるなど、新たな変革期を迎えています。
浄楽寺の境内の前、国道134号沿いには、前島密の胸像が上に乗った、めずらしい郵便ポストが設置されています。もちろん、実際に投函できるポストです。
前島密ゆかりの地で感謝葉書に思いをしたためる
浄楽寺の寺務所では、前島密の故郷・越後からもほど近い越前で漉かれた和紙を使用した「感謝葉書」を購入することができます。感謝葉書は、「日本近代郵便の父」前島密ゆかりの境内に設置された葉書スペースで思いをしたためて、前島密像の郵便ポストから投函することもできます。
浄楽寺周辺の見どころ
浄楽寺は、三浦不動尊霊場巡りや、三浦薬師如来霊場巡り、三浦観音霊場巡りなど、三浦半島のさまざまな霊場巡りの札所になっています。
葉山を南に下った浄楽寺周辺は、観光地として紹介されることも少なく、あまり知名度は高くありませんが、相模湾を望む風光明媚で自然が豊かな、魅力的な場所がたくさんありますので、ゆっくりと歩いて巡ってみることをオススメします。