和賀江嶋は鎌倉時代の1232年(貞永元年)に築かれた日本に現存する最古の築港の遺跡で、国の史跡に指定されています。材木座海岸の南端(小坪寄り)の相模湾上に築かれた人工の港で、現在でも干潮時には無数の玉石からなる港の跡を見ることができます。
「和賀江島」と表記される場合もありますが、ここでは国指定史跡への登録名である「和賀江嶋」としています。呼び方も、「わかえのしま」と言ったり、「わかえじま」と言ったりします。
INDEX
干潮時は隠れた鎌倉の人気磯遊びスポット
和賀江嶋(和賀江島)は、大潮かその前後の干潮時には、築港に用いたと考えられる、その特徴的な丸い石が水面から姿を現わします。波が立っていなければ、普段は沖合に島のように浮かんでいる部分まで、徒歩で渡ることもできます。
鎌倉には磯遊びに適した海岸がほとんどありませんが、このときだけは、和賀江嶋が絶好の磯遊びスポットになります。
潮の満ち引きは、気象庁のホームページ(以下のリンク先参照)などで予測を調べることができます。気象庁が公開している地点の中から、このページで紹介しているビーチにもっとも近い「油壺」のページにリンクしています。
ここで、潮位がマイナス、または、高くても10cm台になるような、磯遊びに適した干潮の日時を調べることができます。
ただし、天気予報のように、実際の潮位とは多少の誤差がありますので、注意しましょう。
和賀江嶋の築港の経緯
鎌倉の前浜である由比ヶ浜海岸と材木座海岸は、現在でも海水浴場に指定されていることからも分かるように、遠浅の海岸です。そのため、小さな船しか着けることができず、事故も多発していました。これでは、陸上の交通が発達していない中世においては不便であったため、往阿弥陀仏という僧が当時の鎌倉幕府の執権・北条泰時に願い出て、1232年(貞永元年)に1ヶ月ほどで材木座海岸の沖合に人工島を築造して完成させたと言われています。
しかし、和賀江嶋が完成しても大量の大型船が着ける港というわけではなかったため、その後、鎌倉幕府は東京湾側に位置する六浦(現在の横浜市金沢区)を貿易港として整備していきます。
それでも鎌倉中心部に近い和賀江嶋の重要性が失われることはなく、「六浦」は鎌倉の外港、「和賀江嶋」が鎌倉の内港という位置づけで、江戸時代まで港として利用されました。
和賀江嶋の周辺
材木座海岸 光明寺
小坪飯島公園 リビエラ逗子マリーナ
和賀江嶋と同じような人工島の築港は、平安時代末期から鎌倉時代前期に造られ、平家(平清盛)のおひざ元だったこともあり日宋貿易で栄えた大輪田泊の経が島(現在の兵庫県)が知られていますが、こちらは現存していません。
和賀江嶋も、自然災害や風化による石垣の崩落や、玉石の逸脱などで、往時の姿を留めているわけではありません。
以下のリンク先からその他の【北条泰時ゆかりの地】もご覧ください
和賀江嶋をめぐる領有権争い
鎌倉幕府が滅亡して、鎌倉の都市としての機能が衰退していくと、和賀江嶋はグローバルなものからローカルなものへと役割の変化がより鮮明になっていきました。それにともない、港の管理も、中央(鎌倉時代は実際には極楽寺が管理を担当)から地方へと移っていきました。
漁業の拠点としての機能がメインになっていくと、材木座村と小坪村の境界線上にあった和賀江嶋では、領有権争いが起きるようになり、江戸時代には裁判沙汰になった記録も残っています。現在でも付近に漁船が停泊している姿が見られますが、和賀江嶋が漁業の重要な拠点であったことを物語るエピソードです。
和賀江嶋(和賀江島)は1968年(昭和43年)に国の史跡に指定されました。その大部分は鎌倉市(材木座)ですが、逗子市(小坪)も範囲に含まれています。
和賀江嶋周辺の見どころ
和賀江嶋は、材木座海岸の南端付近か、リビエラ逗子マリーナに隣接する小坪飯島公園から眺めることができます。