「鐙摺山」は、現在の逗子市と葉山町の境に、海に突き出るようにそびえる山です。この鐙摺山に、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、三浦一族が支城の一つ鐙摺城を構えていました。城主は、このあたりを治めていた三浦一族の大多和義久(三浦大介義明の三男)、または和田義盛あるいは三浦義澄とみられています。
鐙摺山のもっとも海辺で、こんもりと盛り上がった小さな山が「旗立山」です。他にも、「軍見山」や「丸山」など、複数の呼び名があります。
旗立山は葉山町の史跡に指定されています。標高20mほどの超低山ですが、登山道も整備されています。旗立山の頂上には、伊豆の豪族・伊東祐親を供養する塚も残されています。
鐙摺は、決して有名な場所とは言えませんが、軍記物語の「源平盛衰記」「曽我物語」、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」など、さまざまな史料に現われ、印象的な物語がくり広げられた場所です。
「吾妻鏡」の寿永元年11月10日条に書かれた源頼朝のスキャンダル、いわゆる「亀の前事件」では、鐙摺の大多和義久の屋敷が登場します。このことから、鐙摺城の城主も義久であったと考えるのが自然なようです。
「源平盛衰記」などでは三浦義澄が鐙摺城(あふすり)に陣を取る様子が書かれていますが、これは義澄が城主だからというよりは、このときの戦における大将だったからとみるのが適当です。
INDEX
相模湾に面した要害の山城・鐙摺城

鐙摺城は、本丸がどのあたりにあったのかなど、詳しいことは分かっていませんが、源頼朝が平家討伐の兵を挙げた際にその名前が登場します。源氏と平家が一族をあげて争った時代の軍記物語「源平盛衰記」では ”小城” と表現されていることから、それほど大きな城ではなかったようです。
鐙摺城については、昭和初期に発行された「逗子町誌」の「鐙摺古城」の項で、いろいろな史料を引用しながら解説しています。その中には、戦国時代には相模三浦氏の三浦高處(時の当主である三浦道寸(義同)の弟で、住吉城主である道香(義教)の兄)の居城だったと書かれていますが、この時代の鐙摺城についてもほとんど史料は残されていません。
三浦義澄が小坪合戦で味方を鼓舞した旗立山
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、それに呼応した三浦義澄を大将とする三浦一族の軍勢は三浦半島を出発して、相模湾沿いを西へと向かいます。しかし、途中の川が増水していたため足止めされ、石橋山の戦いには間に合わず、頼朝らの敗北を知った義澄らは、引き返すことになります。
「源平盛衰記」巻二十一の「大沼三浦に遇ふ」および「小坪合戦」で、その帰路の途中、ここから逗子湾を挟んだ反対側の由比ヶ浜~小坪で平家方の畠山重忠らの軍勢と戦った際の記録に、鐙摺城(あぶずり、あふすり)が登場します。
現在、日影茶屋が建つ場所の前の海に面した小高い丘を鐙摺城跡(鐙摺城址)とする案内も見られますが、あまりにも低く狭いため、実際には、この内陸を含む、逗子から葉山にかけての山一帯を山城としていたという見方が自然です。
この日影茶屋の前の小高い丘は、小坪合戦で三浦義澄が旗を立てて味方を鼓舞したことから、「旗立山」や「軍見山」などと呼ばれています。
しかしこれも、ここからは大崎の岬が陰になり、三浦軍が前線として陣を敷いた小坪の様子も畠山軍が陣を敷いた由比ヶ浜の様子もほとんど見ることができないため、実際にはより後方の標高が高い場所が城の中心であったと考えられます。本来の「旗立山」「軍見山」も、この後方の山に名付けるべき山名と言えるのかもしれません。

隠れた絶景スポットが待つ 旗立山の超低山登山

旗立山(軍見山)にこのようないわれが付いたのは、そのアクセスのしやすさにあったのかもしれません。海岸沿いの主要道(現在の県道207号森戸海岸線)に面していて、頂上からの眺望も良いため、古くから風光明媚が売りの、ちょっとした観光スポットのような場所だったのでしょう。
現在の旗立山は、観光地化されているわけではありませんが、きちんとした登山道が整備されています。日影茶屋前の登山口から、5分とかからずに山頂に達することができる、超低山です。
なお、この内陸にある鐙摺山には、登山道は整備されていません。

旗立山の頂上からは、天候条件が良ければ、相模湾越しに富士山を一望できる、隠れた絶景スポットです。
夕日もキレイに見られますが、超低山とは言え、普通の山と同じように暗くなれば足元は危険ですので、懐中電灯をお忘れなく。


鐙摺は頼朝因縁の伊東祐親最期の地

旗立山(軍見山)頂上の広場の一角には、伊豆の豪族・伊東祐親を供養するものと伝わる塚が残されています。祐親は、三浦一族や源頼朝とは、少し複雑な関係にありました。
この地も舞台となった小坪合戦から続く衣笠城合戦では、三浦一族は平家方に敗北します。しかし、一族の長・三浦義明を失うものの、源頼朝らと合流して、勢力を拡大していきながら、坂東(関東)を制圧していきます。
富士川の戦いで、伊豆に流されていた源頼朝の監視役だった平家方の伊東祐親も捕らえられ、三浦義澄に預けられます。義澄の妻が祐親の娘だったためです。伊東祐親は、頼朝と自身の娘・八重の子・千鶴丸を殺害したとされる、頼朝の因縁の相手です(諸説あります)。
その後、伊東祐親は、頼朝の妻・北条政子が後の源頼家を妊娠したことを受けて一度は恩赦となりますが、自刃または殺害されます。鎌倉時代の軍記物語「曽我物語」によると、その場所が鐙摺とされていて、旗立山の頂上に祐親を供養する塚があるのはそのためです。
「曽我物語」は史実をもとにしたフィクション性が高い物語とされているものの、鐙摺には三浦義澄の弟・大多和義久の館があったとされることから、伊東祐親がそこに預けられていて、この地で最期を迎えたというのは、あながち作り話とは言えないのかもしれません。

頼朝のスキャンダルでもとくに有名な「亀の前事件」
伊東祐親の死に前後して、鐙摺ではもう一つ事件が起きていました。源頼朝の愛妾・亀の前が大多和義久の館に逃げ込んでくるというスキャンダルです。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、源頼朝は亀の前を鎌倉にほど近い逗子の飯島にあった御家人の伏見広綱の館にかくまい、隠れて通っていました。しかし、これが妻の北条政子にバレてしまい、伏見邸を追い出された亀の前が鐙摺の大多和邸に逃げてきたのです。その後も、頼朝は大多和邸に泊まっています。(亀の前事件)
逗子の飯島にしても、葉山の鐙摺にしても、幕府周辺の目は避けられつつも、鎌倉からは舟ですぐのため、通いやすかったのでしょう。
現在もこのあたりは、葉山港や葉山マリーナがあり、ヨットやクルーザーの港になっていて、小さな舟が頻繁に出入りしています。

政子に告げ口をしたのは政子の父・北条時政の後妻である牧の方で、政子の依頼を受けて伏見邸を取り壊して亀の前を追い出す、後妻打ちを行ったのは牧の方の兄(または父)・牧宗親です。頼朝に呼び出された宗親は罰を受けますが、これに怒った北条時政は一時伊豆の国に帰ってしまいました。これから本格的な平家討伐をはじめようとする直前の、1182年(寿永元年)のことです。
源頼朝が「人たらし(女たらし)」と評されるエピソードの一つです。
後妻打ちとは、先妻が後妻の家を襲う風習で、中世から江戸時代までは、半ば合法的に行われていました。
なお、「逗子町誌」によると、鐙摺で亀の前をかくまった家は、編さんされた当時の、逗子町桜山岩ヶ谷の鈴木喜八氏宅であると言います。当家の周辺には稲荷社や石祠、五輪塔などがあり、当家および分家一族の定紋(家紋)は笹竜胆であることを伝えています。笹竜胆は、源頼朝の家紋とされているものです(諸説あります)。
古代から有力者の拠点があった鐙摺周辺
このように、地名としてはバス停にその名前を残す程度となった「鐙摺」は、鎌倉に幕府が開かれる前、さまざまな事件の舞台となっていました。
現在は鐙摺の切通し(田越の切通し)が開削されるなど道が整備されていますが、明治中期までは、このあたりの陸路は難所でした。このような場所だったからこそ、城として利用されていたとも言えます。
昔の鎌倉・逗子方面と三浦半島南部との往来は、鐙摺城のあった鐙摺山を越えるかその海側を通り、葉山から半島を横断するか、鐙摺山周辺を避けて、田越川を上流方面に登り半島を横断するルートが使われたと考えられています。
古東海道と呼ばれる古代の都から房総方面に抜ける幹線もこれらのルートとされていて、この分岐点となる鐙摺城跡の背後の山には、現存するものとしては神奈川県で最大の前方後円墳「長柄桜山古墳群」(2基)が残されています。
鐙摺城が誕生するよりもずっと昔の、すでに古代には、このあたりに、地域の有力者の拠点があったことになります。

旗立山(軍見山)・鐙摺城跡周辺の見どころ















