千片神社は、三浦氏の祖とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる三浦義村を御祭神として祀る神社で、旧大津村の根岸および井田(現在の京急線北久里浜駅周辺)の鎮守でした。
とくに、麻疹の神様として、近隣の住民だけでなく、遠方の人々からも信仰を集めていたと言います。
しかし、1923年(大正12年)に発生した関東大震災において社殿等が倒壊したため、同様に被害の大きかった他の大津村の9社とともに、震災の翌年、千片神社は大津村の総鎮守である大津諏訪神社に合祀されました。
現在、千片神社の跡地は根岸町内会館になっています。会館の裏手には千片神社之跡の碑が建てられ、倒壊した鳥居などの遺跡とともに、在りし日の旧跡を偲んでいます。
主祭神 | 三浦平六兵衛義村 |
旧社格等 | ― |
創建 | 1613年(慶長18年) |
INDEX
江戸時代にも名声を轟かせていた三浦義村
千片神社のあたりにあったと伝わる三浦義村の館
千片神社の主祭神である三浦義村は、源頼朝が平家打倒の兵を挙げたときに、一族を頼朝と合流させるために一人で衣笠城に残って討ち死にした、三浦義明の孫にあたります。
鎌倉幕府創設後、父の三浦義澄から家督を継いだ義村は、盟友とされる鎌倉幕府第2代執権・北条義時とともに武家政権の基礎を築き、義時亡き後も、第3代執権・北条泰時を支える評定衆として幕府最有力の御家人となり、三浦一族の最盛期を築きました。
三浦義村が表舞台に出てくるのはすでに源頼朝が鎌倉入りを果たした後のため、この頃には義村も鎌倉の館を中心に暮らしていたとみられます。地元である衣笠城の周辺にも館があったものと考えられますが、その一つの伝承として、千片神社周辺にその館があったとする言い伝えがあります。
この伝承が、死後370年あまりを経た江戸時代初期に、この場所に、三浦義村を祀る神社を創建する大きな動機の一つになったのでしょう。
三浦一族の本拠地である衣笠城から千片神社までは、直線でおよそ3kmほどの距離があります。衣笠城のふもとにあたる、満昌寺や清雲寺などの、三浦一族ゆかりの寺院などが並ぶ大矢部からは1.5kmほどの距離です。
千片神社のあった「根岸」は、その水辺を連想させる地名からも分かるとおり、当時は久里浜から深く海が入り込んでいた入り江(現在の平作川)の岸辺近くにありました。根岸と大矢部のすぐ隣りの森崎は、この入り江を挟んだ対岸という位置関係のため、舟を使えば、この1.5~3kmという距離は、陸路で考えるよりも身近なものだったことでしょう。
かつて、対岸の森崎には2つの神社があり(現在はやや山側に移転し、森崎神社の1社に統合)、入り江を渡る際の目印のようになっていたかもしれません。
麻疹の神様と崇められた三浦義村の武勇
三浦義村を祀ることになったきっかけとしてもう一つ考えられるのは、麻疹の神様としての勧請です。
まだ有効な予防対策も根本的な治療方法もなかった江戸時代、「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」などと言われ、麻疹は、死に至る病と恐れられていた疱瘡(天然痘)よりも、さらに死亡率の高い難病でした。
疱瘡の神様として平安時代後期の武将・源為朝が崇められていたように、現代のように医療が発達する前は、強い武将が疫病も退治してくれるという信仰がありました。江戸時代後期に麻疹が流行った際には、「麦殿大明神」という(架空の)神様が人気になり、麻疹除けとして麦殿大明神の錦絵が出まわったと言います。
大津村の住人が、そんな大役を、三浦一族の最盛期をつくった地元の英雄・三浦義村に求めたとしても不思議なことではありません。
三浦義村ゆかりの福寿寺より分霊し創建された千片神社
1981年(昭和56年)に発行された「大津郷土誌」によれば、「千片神社縁起」を引用するかたちで、千片神社は、1613年(慶長18年)、大津村の根岸と井田の代表2名によって、金田村(現在の三浦市南下浦町金田)の福寿寺より三浦義村の霊を勧請し、その功績を称え、神として祀ったとあります。福寿寺は三浦義村が開いた寺院で、三浦義村の墓も金田にあります。
福寿寺や三浦義村の墓が、なぜ、鎌倉や衣笠、大矢部から離れた金田の地にあるのかは分かっていません。千片神社のあった根岸や、三浦一族ゆかりの大矢部あたりから舟を出して、久里浜より東京湾(江戸湾)に出て南に向かえば、当時の舟で日の出ているうちに1日でたどり着くことができるのは金田あたりまでが限界だったと考えられ、三浦義村の別荘かなにかがあったとも考えられます。
なお、大矢部にも三浦義村を主祭神として祀る近殿神社があります。神社名の読み方は、千片神社と同じ「ちかた じんじゃ」です。
こちらの近殿神社は、創建年や創建の経緯などの詳しい縁起は分かっていません。しかし、主祭神が同じと言うことにとどまらず、社名の読み方も同じということから、両社にはなんらかの関係性があることは間違いないでしょう。
三浦三つ引があしらわれた根岸町内会館
大津諏訪神社に合祀される前までの千片神社では、毎年、旧大津村の根岸と井田の住民によって盛大にお祭りが行われていたと言います。
現在、千片神社跡に建つ根岸町内会館の外壁には、三浦一族の家紋「三浦三つ引」があしらわれています。また、千片神社の「千片」の名前は「根岸神輿保存會 千片睦」として残っていて、三浦義村や三浦一族への熱い信仰心は、今も生き続けているようです。