城ヶ島灯台は、日本の西洋式灯台としては5番目に、1870年(明治3年)に初点灯しました。観音埼灯台と同様、江戸幕府からの依頼を受けたフランス人技師ヴェルニーが部下である灯台技師ルイ・フェリックス・フロランに命じて、設計・建造されました。
当初は横須賀製鉄所製のレンガ造りでしたが、関東大震災で倒壊したため、1925年(大正14年)にコンクリート造りで再建されました。
城ヶ島灯台は城ヶ島西端の長津呂崎に位置していて、1962年(昭和37年)に島の東端に設置された安房埼灯台とともに、三浦半島の入口を行き交う船舶の目印になっています。
城ヶ島灯台は、イベント開催時を除いて、建物の内部を見学したり、登ることはできません。
灯台の周辺は城ヶ島灯台公園として整備されていて、太平洋の広大な海原を望むことができます。
京急バスの終点「城ヶ島」や城ヶ島西側駐車場方面から城ヶ島灯台公園までの間は、城ヶ島灯台商店街になっていて、飲食店やお土産物屋、民宿が建ち並んでいます。
城ヶ島灯台がある長津呂崎の海岸線は岩礁地帯になっていて、島の南側に続く岩礁を歩いて、馬の背洞門(赤羽根崎)や島の西端にある県立城ヶ島公園(安房崎)方面へ行くことができます。
城ヶ島灯台は、2016年に日本ロマンチスト協会と日本財団の「恋する灯台プロジェクト」によって、安房埼灯台とともに「恋する灯台」の一つに認定されています。
INDEX
江戸時代から300年以上続く城ヶ島灯台の歴史
城ヶ島灯台の前身の和式灯台が城ヶ島西端の高台にできたのは1678年(延宝6年)のことで、当時は「西山燈明堂」や「浦燈明し」などと呼ばれていたようです。以降、1870年(明治3年)に城ヶ島灯台が初点灯するまで、およそ200年に渡って三浦半島最南端の灯台として三浦半島や東京湾(江戸湾)・相模湾沿岸地域の航海や漁業を支えてきました。
当時は陸路の交通は発達しておらず、長距離の移動の多くは船によるものでした。明治以前の家屋の灯りは暗く、海上から目印になるようなものではなかったため、夜間、この灯台がなければ船は東京湾と相模湾の入口すらわからず、安全な航海のために重要な施設だったことは容易に想像がつきます。
城ヶ島灯台は日本で5番目にできた洋式灯台ですが、1866年(慶応2年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約(改税条約)によって江戸幕府が建設を約束した8ヶ所には含まれていませんでした。東京(江戸)や横須賀に近い重要な場所ということで、当初より優先順位が上げられたのでしょう。
現在の城ヶ島灯台は、灯台下部に建物が透けるようにドアが描かれていて、その中には反対側の景色が見えるようなしかけになっています。馬の背洞門のトンネルと並ぶ、城ヶ島を代表する映えスポットと言って良いでしょう。
古代ギリシャや地中海風の城ヶ島灯台公園
城ヶ島灯台の周辺は、古代ギリシャ建築や地中海風の雰囲気を模した公園になっています。この城ヶ島灯台公園は、城ヶ島の他のどの場所とも似ていない、異質な空間です。訪れる人はそれほど多くなく、城ヶ島の穴場スポットとも言えます。
城ヶ島灯台公園や城ヶ島灯台周辺は高台に位置していますが、老朽化のためビュースポットの遊歩道が立入禁止(2023年10月現在)になっているなど、海への眺望はそれほど良くありません。
城ヶ島西端の長津呂崎
城ヶ島灯台がある高台の下は、長津呂崎と呼ばれる岩礁の海岸になっていて、磯遊びをたのしむことができます。「長津呂」の読み方は、「ながつろ」ではなく「ながとろ」です。
長津呂崎から島の南岸中央に位置する馬の背洞門(赤羽根崎)まで、岩礁の海岸を磯伝いに歩いていくことができます(満潮時は危険な箇所があります)。
長津呂崎にはかつて島内最大の宿泊施設であり唯一のホテルであった城ヶ島京急ホテルがありましたが、2020年4月末からの新型コロナウイルス感染症拡大による休業を経て、そのまま再開することなく翌月に閉館しました。
城ヶ島灯台と長津呂崎の夕日
城ヶ島西端の長津呂崎は夕日の名所でもあります。少し離れた城ヶ島ハイキングコース上からは、城ヶ島灯台と富士山とのセットで、夕日をたのしむことができます。
「恋する灯台」に選ばれている城ヶ島灯台の下にある展望デッキは、デートにオススメの夕日のビュースポットです(2023年10月現在、遊歩道は閉鎖中)。