乱橋(濫橋)は、小町大路の妙長寺より少し海側で滑川支流の小川を渡る橋です。江戸時代に選定された鎌倉十橋の一つに選ばれています。
短い石造りの欄干と、橋の名称が書かれた石柱が残されていますが、よく注意して歩かないと見過ごしてしまうほど道路と一体化しています。1929年(昭和4年)に鎌倉青年団によって建てられた乱橋の旧跡案内の石碑が目印になります。
乱橋(濫橋)の名前の由来は、この橋の下を流れる川がよく氾濫したため「濫橋」と呼ばれるようになったと言われています。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、1248年(宝治2年)6月に、この橋の南で雪が降ったことが記録されていて、「濫橋」の名前が登場します。1333年(元弘3/正慶2年)、鎌倉幕府倒幕のため新田義貞率いる軍勢が鎌倉に攻め入った際、幕府方の軍勢の陣形がこの辺りで乱れたというエピソードも伝わっています。
往時の雰囲気を想像することは難しい 乱橋の現況
かつて、乱橋は、材木座の町(南側)と、小町大路と大町大路が交差する辺りの「辻町」(北側)の境となる場所でした。
現在の乱橋からは、滑川方面(西側)は暗渠になっていて、その反対側(東側)は大きめの側溝のような小川が流れていることを確認できます。
現在の乱橋は、鎌倉市材木座にあります。材木座は、江戸時代には、南東側の材木座村、北西側の乱橋村に分かれていました。乱橋村の名前は、この乱橋によります。当時の橋や川の規模は分かりませんが、滑川の支流に架かるような橋の名前が村の名前になるとは、よほどインパクトが強い橋だったのでしょう。
泉鏡花の小説の題名にもなり かつては地名として存在した乱橋
乱橋村と材木座村は、江戸前期以前は一つの村でしたが、明治期に再び合併して乱橋材木座村となり、さらに、長谷村・坂ノ下村・極楽寺村と大町村の一部と合併して、西鎌倉村乱橋材木座と、西鎌倉村の大字になりました。1894年(明治27年)には、西鎌倉村は東鎌倉村と合併して鎌倉町(現在の鎌倉市の大部分)となりました。
その後、大正・昭和と「乱橋材木座」の地名は残りましたが、戦後に実施された住居表示で、地名としての「乱橋」は消えることになりました。鎌倉市乱橋材木座の大部分は、鎌倉市材木座になっています。
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家・泉鏡花は、1898年(明治31年)に、「みだれ橋」(後に 「星あかり」 と改題)という短編小説を発表しています。この小説は、泉鏡花が1891年(明治24年)7月・8月の2か月間、乱橋のすぐ近くにある妙長寺に滞在していた際の経験をもとに書かれた作品です。「みだれ橋」という題名は、この乱橋に由来します。
この小説の中で、「相州西鎌倉乱橋」というくだりが出てきますが、この「西鎌倉」とは、現在の鎌倉市西鎌倉(鎌倉市西部の湘南モノレール沿線)や鎌倉の西を意味するものではなく、西鎌倉村のことです。