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東慶寺 | 600年も女性を守り続けた縁切寺の歴史を持つ梅に代表される花の寺

東慶寺・山門前の梅(撮影日:2021.02.25) 鎌倉
東慶寺・山門前の梅(撮影日:2021.02.25)

女性のための縁切寺だったことで知られ、かつては男子禁制の尼寺でした。封建的な時代にあっては、女性の味方である、とても貴重な存在だったことに間違いないでしょう。

このような権威を保てた背景には、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の正室であり第9代執権・北条貞時の母だった開山の覚山尼後醍醐天皇の皇女だった5世・用堂尼豊臣秀頼の正室であり徳川秀忠の子である千姫の養女であった20世・天秀尼など、歴代の住持を名門の息女が務めたということがあげられます。

明治期に縁切りの寺法尼寺の歴史も幕を閉じ、現在は、参道沿いの梅に代表される花の寺として知られています。

山号松岡山
宗派臨済宗円覚寺派
寺格鎌倉尼五山第二位
本尊釈迦如来坐像
創建1285年(弘安8年)
開山覚山尼かくさんに
(北条時宗公夫人)
開基北条貞時

境内には、縁切寺だった時代の古文書などの寺宝を拝観できる松ヶ岡宝蔵(別途拝観料が必要)があります。鎌倉尼五山第一位太平寺(廃寺)の本尊だった仏像も安置されています。

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約600年続いた縁切寺の歴史

東慶寺・山門(撮影日:2021.02.25)
東慶寺・山門(撮影日:2021.02.25)

中世から江戸時代に渡る封建時代、女性から離婚を切り出すことが難しかった時代に、東慶寺に駆け込めば離縁ができるという女人救済の寺でした。

縁切寺法を定めた開山・覚山尼

開山の覚山尼が3年間、東慶寺に奉公すれば縁を切れるという寺法を定めて以来、時の権力者にも庇護され続けて、女性からの離婚請求が認められるようになる明治時代まで、縁切寺法は守られ続けました。
この、約600年の間に東慶寺の門に駆け込んだ女性は、数千人にのぼると言われています。

このように東慶寺が特別扱いされてきた背景の一つには、開山の覚山尼が鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の正室であり第9代執権・北条貞時の母だったことからはじまり、歴代の住持を名門の息女が務めたということがあげられます。

兄・護良親王の菩提を弔うために入寺した五世・用堂尼

5世住持の用堂尼後醍醐天皇の皇女で、この頃から東慶寺は「御所寺」や「松岡御所」とも呼ばれるようになりました。鎌倉尼五山第二位に列せられたのもこの頃のことです。

用堂尼は、兄である護良親王の菩提を弔うために入寺したと言われていて、護良親王最期の地となった東光寺(現在の鎌倉宮の場所。横浜市金沢区にある東光禅寺の前身の寺院)や護良親王の墓所となった理智光寺(廃寺。墓所は現存)の土地を東慶寺が管理していた過去があったり、「獅子舞」や「五林山」(いずれも、二階堂の字)の山林を現在も所有しているなど、東慶寺のある北鎌倉・松岡から離れている二階堂周辺に縁があるのはこのためです。

徳川家との強固な関係を築いた20世・天秀尼

20世住持の天秀尼豊臣秀頼と側室の息女で、大坂落城後に、先に救出されていた豊臣秀頼の正室であり徳川秀忠の子である養母・千姫に助けられるかたちで東慶寺に入寺しました。
これ以降、東慶寺は江戸幕府・寺社奉行直轄の寺院となり、江戸時代を通して徳川家との強固な関係が続いていきました。

東慶寺・鐘楼(撮影日:2020.12.16)
東慶寺・鐘楼(撮影日:2020.12.16)
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縁切「寺法」廃止後の東慶寺の「寺宝」

明治時代に入って女性からの離婚請求が認められるようになり、縁切寺としての役目を終えると東慶寺は一時荒廃していきましたが、建長寺円覚寺両派管長だった釈宗演(男僧2世)が住持となり中興開山されました。

寺法や離縁状などを今に伝える 松ヶ岡宝蔵

東慶寺・松岡宝蔵とイチョウの黄葉(撮影日:2020.12.16)
東慶寺・松岡宝蔵とイチョウの黄葉(撮影日:2020.12.16)

縁切寺時代の寺法書や離縁状などの古文書は、境内にある宝物館・松ヶ岡宝蔵(別途拝観料が必要)で見ることができます。

また、松ヶ岡宝蔵には、鎌倉尼五山第一位であった太平寺(廃寺)の本尊・木造聖観音立像も安置されています。
この聖観音立像を安置していた太平寺の仏殿は、円覚寺舎利殿(神奈川県唯一の国宝建造物)として残っています。

D・T・スズキが世界にZENを発信した 松ヶ岡文庫

東慶寺・松ヶ岡文庫の標柱(撮影日:2020.12.16)
東慶寺・松ヶ岡文庫の標柱(撮影日:2020.12.16)

中興開基した釈宗演の弟子の一人に、仏教学者の鈴木大拙だいせつ(居士=在家の信者)がいます。
鈴木大拙は欧米に禅(ZEN)の文化を広く発信したことで知られ、海外では「D・T・スズキ(Tは本名である貞太郎ていたろうのT)」の名で通っています。
鈴木大拙は晩年、東慶寺の裏山に松ヶ岡文庫を設立して、ここを拠点にの文化の発信や研究を続けました。
松ヶ岡文庫は現在も、およそ7万冊におよぶ専門図書を収蔵する、日本でも有数の仏教文庫です。

鈴木大拙の英語での著書や講演は、「ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)」(1964)で有名なアメリカの作家J・D・サリンジャーや、ビート・ジェネレーションと呼ばれるゲイリー・スナイダージャック・ケルアックといったアメリカの作家たちに強い影響を与えました。

J・D・サリンジャーは、連作小説「フラニーとズーイ」(1961)のなかで「スズキ博士」(村上春樹訳では「鈴木大拙」と明記)として登場(回想)させていて、他の作品も含めて、東洋思想の影響を大きく受けているのが特徴です。
短編集「ナイン・ストーリーズ」(1953)の扉に、禅の公案である「隻手の声せきしゅのこえ」(両手を叩く音は知る、ならば片手を叩く音は?・・・柴田元幸訳より)を引用したことでも有名です。

ビート・ジェネレーションの作家のなかでは、とくにゲイリー・スナイダーが強い影響を受けたことをエッセイの中などで語っていて、若き日に読んだ鈴木大拙の著書が人生を大きく変えたと言います。
ビート・ジェネレーションのムーブメントは、その後、反戦運動環境運動などにつながっていきましたが、これも、鈴木大拙が紹介した東洋思想の影響があるのかもしれません。

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