勝長寿院は、源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した寺院です。頼朝が平家討伐の挙兵をして、鎌倉入りを果たした5年後の、1185年(文治元年)のことです。
源氏将軍や源頼朝の妻・北条政子の存命中は源氏の菩提寺という性格の強い寺院でした。
その後も、鎌倉時代中期から室町時代前期にかけては、鎌倉幕府や鎌倉公方・足利氏の保護を受けていましたが、関東の政治の中心が鎌倉から古河に移ると、衰退し、後に廃寺となりました。
勝長寿院は、鶴岡八幡宮、永福寺(廃寺)とともに、源頼朝が鎌倉に建立した三大寺社の一つに数えられています。
永福寺跡周辺にはその大きなお堂に由来する「二階堂」という地名が残っていますが、勝長寿院があったあたりは「大御堂ヶ谷」と呼ばれています。「大御堂」とは勝長寿院の別名です。
勝長寿院は、源頼朝の住まいであった大倉御所の南に位置していたため「南御堂」と呼ばれることもありましたが、「大御堂」という別名は勝長寿院がいかに大寺院だったかということをシンプルに物語っています。
山号 | 阿弥陀山 |
宗派 | ― |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
創建 | 1185年(文治元年) |
開山 | ― |
開基 | 源頼朝 |
横須賀・芦名にある浄楽寺は、正式名称を「金剛山勝長寿院大御堂 浄楽寺」と言います。浄楽寺には、源頼朝の死後から数年たった1206年(建永元年)、台風によって鎌倉の勝長寿院の堂宇が損壊したため、北条政子と三浦一族の和田義盛の手によって、芦名の地に移されたという伝承があります。和田義盛は、三浦半島を本拠地とし、頼朝から侍所別当に任命されるなど、頼朝の信頼があつかった武将の一人です。
浄楽寺には、鎌倉時代前期の仏師・運慶が製作した仏像が安置されています(全国に真作とされているものは19体しか残っていませんが、浄楽寺にはそのうち5体が現存しています)。浄楽寺が特別な寺院だったことは間違いないでしょう。
浄楽寺創建後も勝長寿院は鎌倉で存続していますし、この二つの寺院の関係については確かなことは分かっていませんが、なにも関係がなかったというほうが不自然です。
INDEX
平家に勝利し、都の文化を取り入れた勝長寿院
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、勝長寿院は1185年(文治元年)10月に盛大な落成供養が催されました。この年の春には壇ノ浦の戦いで平家が滅んでいます。勝長寿院建立は、平家討伐と並行して進められていたことになります。
世の中の空気も、平家中心から源氏の世に向かって風向きが変わってきたことは、みな感じ取っていたことでしょう。それを示すような動きは勝長寿院建立の経緯にもみられました。
源頼朝は、とくに落成直前には、京都や奈良から多くの職人や僧を呼び寄せていて、平家や朝廷が独占していた都の文化を、鎌倉に取り込もうとしました。
勝長寿院の本尊・阿弥陀如来像を製作させるために、興福寺の平家による焼討からの再興事業に携わっていた仏師・成朝を、奈良から鎌倉に呼び寄せます。成朝は、運慶などの慶派の本家筋にあたる、奈良仏師本流の人物です。
また、仏像背後の壁画を描かせるため、宅磨派の絵師・宅磨為久を京都から呼び寄せています。
もちろん、落成供養を執り行う僧も、京都から多く呼んでいました。
勝長寿院建立の表向きの名目は源頼朝の父・義朝の供養のためでしたが、鎌倉に都の文化を取り入れた大寺院を築くことで、全国に、源氏の世の中になったことを高らかに宣言する意図もあったのかもしれません。
源実朝や北条政子も葬られた源氏の菩提寺
その後、勝長寿院には、源義朝の他にも、源頼朝の子で鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)・源実朝や、頼朝の妻・北条政子も葬られました。
実朝は公暁に暗殺された後、首を持ち去られたため、勝長寿院には胴体だけが葬られました。実朝の首塚とされる塚は、現在の秦野市にあります。
政子は、晩年を勝長寿院奥に建立した御堂御所で暮らしました。この御堂御所は、政子の持仏堂であり、法華堂でもあったと考えられます。
勝長寿院は廃寺となってしまっため、北条政子と源実朝の墓のその後の経緯は分かりませんが、現在、二人の墓は鎌倉・扇ガ谷の寿福寺にもあり、供養されています。寿福寺は、源義朝の館があった場所に政子が創建した寺院です。
北条政子のものとされる墓は、この他にも、鎌倉・大町の安養院にあります。「安養院」という名前は、政子の法名にちなむものです。
真の意味での鎌倉屈指の幻の大寺院
現在の勝長寿院跡周辺は、谷戸に住宅がびっしりと建ち並んでいて、その痕跡を見つけることは難しいです。大正時代に谷戸の一角に建てられた勝長寿院跡を示す旧跡碑と、「大御堂ヶ谷」という谷戸の名前、そして金沢街道から滑川を渡ってその谷戸に通じる「大御堂橋」という橋の名前に、その面影を残すくらいです。
勝長寿院の落成供養に先立ってこの地に埋葬された源義朝とその郎等・鎌田政家の墓(供養塔)だけは、勝長寿院跡の旧跡碑と並んで、今もひっそりと建っています。
勝長寿院と同じ、源頼朝が鎌倉に建立した三大寺社の一つである永福寺も現存していませんが、永福寺跡は昭和後期から発掘調査が行われ、かなり全容が分かるようになってきました。現在、永福寺跡は、史跡公園のようなかたちに整備され、一般に公開されています。
しかし、住宅が建ち並ぶ勝長寿院跡で同様の調査を行うことは事実上不可能なため、勝長寿院は真の意味で鎌倉屈指の幻の大寺院と言えます。