東昌寺は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が建立した北条得宗(嫡流)家の菩提寺であった鎌倉・小町の東勝寺を前身に持つと伝わる寺院です。京急逗子線神武寺駅のすぐそばに建っています。
源氏三代が滅んで以降、執権体制を確立して100年以上に渡って幕府の実権を握っていた北条氏でしたが、1333年(元弘3年)に一族は滅び、鎌倉幕府も滅亡となりました。
その際、事実上の最終決戦の地となったのが東勝寺で、第14代執権・北条高時をはじめとした北条一族とその家臣たち870人余は、最期を悟ると、寺に火をかけて、その地で自害したと伝えられています。
この東勝寺合戦の戦火の中、東勝寺の住職・信海は本尊の大日如来像を抱えて、鎌倉から逗子の池子まで山道を逃げ延びて、この地で東勝寺を再建したと伝えられています。
山号 | 青龍山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 大日如来 |
創建 | 1333年(元弘3年)ごろ |
開山 | 信海 |
開基 | ― |
INDEX
江戸時代に水戸徳川家の支配下になり「東昌寺」へ
東昌寺がある池子は、室町時代に鎌倉尼五山第一位だった太平寺(廃寺)の寺領となり、江戸時代には鎌倉・扇ガ谷の尼寺・英勝寺の寺領となりました。英勝寺は水戸徳川家と深い関係にある寺院で、その後も池子は、1871年(明治4年)に神奈川県に編入されるまで、水戸徳川家、水戸藩、水戸県(廃藩置県によって置かれた水戸藩の後身、現在の茨城県の一部)の支配下にありました。このような事情もあってか、江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記稿」には、三浦郡池子村のみ未掲載となっています。
この、池子が水戸徳川家の支配下にあった時代に、水戸徳川家への遠慮から、寺名を「東勝寺」から「東昌寺」に改めたと伝えられています。
北条政子が源実朝の菩提を弔うため建立した阿弥陀堂
江戸時代の寛文年間には、英勝寺の命によって、池子の阿弥陀ヶ谷(現在の県立逗子高校の裏手。逗子高校は2023年に県立逗葉高校と統合)にあった阿弥陀堂が東昌寺境内に移されました。
この阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀如来像は、鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)・源実朝の非業の死を弔うために、母の北条政子が仏師・運慶に依頼して製作されたものだったと伝えられています。
しかし、1727年(享保12年)の火災によって、運慶作の阿弥陀如来像も、阿弥陀堂も焼失してしまいました。
現在の阿弥陀如来像と阿弥陀堂は、1756年(宝暦6年)に再建されたものです。阿弥陀如来像は身の丈が2.595mあり、三浦半島では珍しい大きさです。胎内墨書銘より、鎌倉・扇ガ谷の仏師・三橋宮内忠之とその息子の幸右衛門・政次郎の作であることが分かっています。
北条貞時の御家人・二階堂行心の墓と伝わる旧慶増院五輪塔
東昌寺の本堂と阿弥陀堂の間に祀られている五輪塔は、かつて葉山の慶増院にあったもので、鎌倉幕府第9代執権・北条貞時の御家人だった二階堂行心の墓と伝えられています。慶増院は近世に無住となり、廃寺同然となりましたが、昭和初期に再興されました。このとき、寺の名前も高養寺と改名されました。その後、高養寺は浪子不動と統合されるかたちで、逗子海岸に面した新宿に移りました。
高養寺が東昌寺持ちとなったことから、1976年(昭和51年)に旧慶増院五輪塔も東昌寺境内に移りました。
この五輪塔は鎌倉時代後期の乾元2年(1303年)のもので、国の重要文化財に指定されています。
東国八十八ヶ所・第七十九番霊場および湘南七福神・福禄寿
東昌寺は、東国八十八ヶ所・第七十九番霊場となっています。
また、東昌寺の宝仙福寿祿壽尊像は湘南七福神(福禄寿)の本尊です。