愛宕山公園は、浦賀湾を望む西浦賀の高台にある、1891年(明治24年)に開園した、横須賀市内で一番古い公園です。1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航した際、事実上の幕府側の代表としてアメリカ側と交渉にあたった浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立された場所に整備されました。開園当初は「浦賀園」と呼ばれていて、その名残が紺屋町バス停近くの愛宕山公園入口の古い標識に残っています。
愛宕山公園は、遊具があったり、きれいに整備された芝生広場や花壇があるような、近代的な公園ではありません。中島三郎助招魂碑の他、日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられた咸臨丸出航の碑や与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑など、往時の浦賀をしのぶ歴史公園です。
INDEX
浦賀ドック開設のきっかけをつくった中島三郎助の招魂碑
愛宕山公園に建つ、中島三郎助招魂碑は、三郎助の二十三回忌に、彼の功績と名誉を浦賀に末永く残すことを目的に建立されたものです。
中島三郎助は、王政復古後の1868年(慶応4年)に勃発した戊辰戦争では、幕府海軍の重臣だった榎本武揚、荒井郁之助らとともに旧幕府軍側につき、翌1869年(明治2年)に北海道・函館の五稜郭近郊・千代ヶ岱陣屋で戦死しました。中島三郎助が率いていた、この千代ヶ岱陣屋での戦いが戊辰戦争での最後の戦闘となりました。この直後、旧幕府軍は新政府軍に降伏して、戊辰戦争は終結することになります。
中島三郎助招魂碑に刻まれた題辞は、戊辰戦争をともに戦った榎本武揚によるものです。また、招魂碑の除幕式では、やはり戊辰戦争をともに戦った荒井郁之助の発案によって、中島三郎助の意志を継いだ近代的な造船所の開業も決定されました。1897年(明治30年)には、荒井郁之助、榎本武揚らによって浦賀船渠(後の住友重機械工業浦賀工場。通称:浦賀ドック)が設立され、かつて幕府の浦賀造船所があった場所に再び造船所が建設されました。
中島三郎助の墓は、戊辰戦争でともに散った子らの墓とともに、対岸の東林寺にあります。
愛宕山公園がある「愛宕山」は、かつて「陣屋山」とも呼ばれていました。これは、徳川家康が関東に移ってきた後、三浦半島を治めることになった代官頭・長谷川長綱がこの山の下(または頂)に陣屋を構えていたと伝わることに由来しています。少なくとも江戸時代後期までは「陣屋山」という地名も残っていました。
「愛宕山」という地名の由来は、やはりこのあたりに愛宕社という神社があったことに由来すると考えられます。愛宕社は、江戸時代中期の寛政年間に再建されたと伝わりますが、現存しません。
浦賀から日本初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸出航の碑
愛宕山公園の頂上からは、今も、浦賀湾の湾口や東京湾の景色を望むことができます。ペリーが浦賀に来航した当時も、愛宕山などの浦賀周辺の山には、黒船見物のために多くの人が押し寄せたことでしょう。
ペリー来航当時に、浦賀奉行所与力だった中島三郎助は、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道の2人に代わり通訳とともに黒船に乗船して、アメリカ側との交渉を担当しました。(浦賀奉行所の与力とは、トップである浦賀奉行を補佐する役職です)
当時最先端だった蒸気船や近代的な兵器を一番間近で目の辺りにし、大国の脅威を肌で感じとった中島三郎助は、日本で建造された最初の西洋式軍艦「鳳凰丸」の浦賀造船所での建造に関わったり、幕府が海軍士官候補生を養成するために設立した長崎海軍伝習所に第一期生として入所しオランダ海軍の講師から近代的な航海術などを習得するなど、日本の海軍黎明期にその礎を築いた一人となりました。
また、中島三郎助は、浦賀造船所にて、日本人の航海士による日本の軍艦として、はじめて太平洋横断に成功した咸臨丸の整備も担当しました。
咸臨丸は、ペリー来航後に江戸幕府がオランダ政府に発注した西洋式軍艦の1隻で、幕末の1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団の随伴艦として、アメリカ軍艦ポーハタン号とともに太平洋を横断しました。咸臨丸は浦賀で最後の整備を受けた後、アメリカに向け日本を出航していきました。
愛宕山公園の中腹に建つ咸臨丸出航の碑は、1960年(昭和35年)に、日米修好通商条約の締結100年を記念して、日本出航の地となった浦賀に建立されたものです。
咸臨丸出航の碑の裏面には、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などの、太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の乗組員の名前が刻まれています。
日本で建造した船による太平洋横断としては、江戸時代初期に、徳川家康の外交顧問であった三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号があります。サン・ブエナ・ベントゥーラ号は、スペインの前フィリピン臨時総督であるロドリゴ・デ・ビベロの乗る船が難破して日本に漂着した際、代替船として貸与されて、浦賀からスペイン領だったメキシコまで、太平洋を横断しています。
なお、戊辰戦争では、幕府海軍の軍艦だった咸臨丸も、中島三郎助と同様に旧幕府軍として参加しましたが、すでにその当時は旧式となっていたこともあり、新政府軍により拿捕され、明治政府に接収されました。
咸臨丸は限られた予算で海外に発注した船のため、就役当初より型落ちだったということも考えられますが、たった10年程度の竣工年の違いで性能差が顕著に見られたということから、当時の船舶の技術向上のスピードが凄まじかったことがうかがい知れます。
太平洋横断の際に咸臨丸を整備した浦賀造船所の跡地である浦賀ドック(こちらももう現役の造船所ではありませんが)周辺では、毎年、咸臨丸フェスティバルが開かれています。
昭和前期の浦賀のまちの光景を詠んだ与謝野鉄幹・晶子夫妻歌碑
愛宕山公園の中島三郎助招魂碑の前方には、ともに明治後期から昭和前期に活躍した歌人である与謝野鉄幹(本名:寛)・晶子夫妻の歌碑が建っています。歌碑に刻まれた歌は、1935年(昭和10年)3月3日に与謝野鉄幹・晶子夫妻が、同人たちとともに、観音崎・浦賀・久里浜を吟行に訪れた際に詠まれたものです。
与謝野鉄幹は同年3月26日に肺炎のため亡くなったため、鉄幹最後の歌の一つとされています。
与謝野鉄幹の歌も晶子の歌も、黒船が訪れた時代から様変わりし、造船所のまちとなった浦賀の光景を詠んでいます。
昭和前期の観音崎・浦賀・久里浜は、中島三郎助がペリーと交渉し、咸臨丸が太平洋横断を果たした幕末はすでに遠い過去の歴史で、歌人や文人たちが好む名所・旧跡として親しまれる観光地になっていたのでしょう。
眺望が良い桜の名所としての歴史を持つ明治期の横須賀の公園
すっかり造船所のまちとなった浦賀町は、1943年(昭和18年)に、軍港都市として発展を続けていた横須賀市に編入されました。幕府が開設した浦賀造船所の閉鎖と入れ替わるように造られた横須賀海軍工廠(開設当初は横須賀製鉄所、横須賀造船所)があったものの、再び浦賀ドック(浦賀船渠)として造船所が開設され数多くの軍艦を建造していた浦賀は、旧日本軍の軍拡の方針とともに拡大を続ける横須賀軍港にとって欠かせない存在でした。
周辺の衣笠村も1933年(昭和8年)に、久里浜村は1937年(昭和12年)に、横須賀市へ編入しています。
愛宕山公園が開園した当時の西浦賀は、横須賀市に編入前の浦賀町に属していました。
横須賀市として開園した最も古い公園は、1912年(明治45年)に、当時の横須賀の中心地に開園した諏訪公園です。愛宕山公園の開園はこれより20年も早く、当時の浦賀が港町として栄え、成熟したまちだったということがうかがい知れます。
愛宕山公園や諏訪公園、衣笠山公園といった、横須賀に残る明治期に開園した公園はどこも同じようなレイアウトで、自然の山を丸々利用して、その山のところどころに複数の広場を設けているという点がよく似ています。広場は、海やまちへの眺望が開けている場所に設けられていて(現在は、樹木の成長によって見えにくい場所もあります)、今も昔も、景観をたのしめる場所が市民の憩いの場であるということに変わりはないようです。
また、これらの公園は、横須賀有数の桜の名所として親しまれてきた歴史があります。
今でも愛宕山公園では桜が多く見られます。頂上広場をはじめ、いくつかある広場はどこも桜が植えられていますので、お花見もたのしめます。
しかし、ソメイヨシノなどの野生種ではない桜の寿命は50年程度と言われているものが多く、定期的な手入れや植替えなどをしないと桜の名所として持続していくことはできません。
日本さくら名所100選に選ばれていて、これらの中では公園としての規模も大きい衣笠山公園は現役の桜の名所と言えます。愛宕山公園と諏訪公園も、手入れはしているのだと思われますが、とくに植替えをしている様子は見られないことから、桜の名所としては晩年に差しかかっていると言えます。
浦賀湾の道しるべ浦賀愛宕山導灯
愛宕山公園の山腹には、浦賀愛宕山導灯(前灯)・浦賀愛宕山導灯(後灯)という、2基の小型の灯台が建っています(いずれも、旧称は住友重機械愛宕山導灯)。これは、船舶が、狭い浦賀湾を安全に出入りできるようにすることを目的に設置されている灯台(導灯)です。
愛宕山公園は、現役の灯台の役割も備えていて、まさに船舶とともに歴史を歩んできた浦賀を象徴するような場所と言えます。