福寿寺は、鎌倉時代の武将・三浦義村が開いた寺院です。三浦義村は、三浦義明の孫、三浦義澄の次男にあたります。
福寿寺には、寺宝として、三浦義村が愛用した鞍、鐙、脇差等が伝わっていて、鞍と鐙は現在も目にすることができます。
福寿寺から徒歩で5分ほどの場所には、三浦義村の墓所があります。この墓所があった場所には福寿寺の塔頭(子院)の南向院がありましたが、現在は廃寺となっています。
| 山号 | 岩浦山 |
| 宗派 | 臨済宗建長寺派 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 聖観世音菩薩 |
| 創建 | 1200年(正治2年) |
| 開山 | 慶叔大考禅師大和尚 |
| 開基 | 三浦義村 |
三浦義村がこのあたりに住んだという史料は見つかっていません。
義村の拠点があったとみられる横須賀の大矢部周辺からは、当時の舟で日が出ているうちにちょうど1日で移動できる距離だったと考えられるため、福寿寺は、気軽に訪れることができる持仏堂兼別荘として利用していたのかもしれません。舟で三崎へ行く時の中継地点としても良さそうな場所です。
鎌倉とは三浦半島のちょうど反対側に位置するここ金田の地は、幕府内の喧騒から逃れるにはうってつけの場所だったことでしょう。



源氏再興の立役者として称えられた三浦義村の「勝軍地蔵」

江戸時代後期に発行された「三浦古尋録」では、岩浦山福寿寺縁起を引用するかたちで、三浦義村と福寿寺について、次のようなエピソードを紹介しています。
平家討伐のため三浦一党は摂津国一の谷に向かいましたが、鵯越の山中で道に迷ってしまいました。そのとき、三浦義村の前に日ごろ信仰していた地蔵菩薩の尊像が姿を現わし、馬の進む先を導いてくれました。山の頂まで到達すると、義村は叔父の佐原十郎義連らとともに先陣をきって馬で急坂を駆け下りて、須磨・九重の砦に攻め入り、平家に勝利することができました。
源氏再興はこのときの地蔵菩薩の霊験・功徳によるものであるとし、「勝軍地蔵」と称えられるようになりました。
三浦義村自身も「義村公勇敢福寿延命也」と称えられたことから、寺の寺号を「福寿寺」としたと言います。
勝軍地蔵は、三浦義村の墓が建てられた福寿寺の塔頭・南向院の本尊として祀られていましたが、南向院が廃寺となったため、現在は福寿寺に安置されています。

初の鶴岡八幡宮流鏑馬神事でトリをつとめた 三浦義村愛用の鞍と鐙

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、1187年(文治3年)、源頼朝は鶴岡八幡宮ではじめてとなる流鏑馬神事を催しています。御家人のなかから5人の射手が選ばれていますが、このとき、並みいる精鋭を抑えてトリをつとめたのが、三浦義村でした。義村は、すぐれた馬術の持ち主だったことがうかがえます。
福寿寺には、そんな三浦義村が愛用していたものと伝わる「鞍」と「鐙」が大切に保管されています。どちらも馬具の一種で、「鞍」は馬の背の上に腰掛ける部分、「鐙」は足を乗せる部分です。「鞍」は木製ですが、保存状態はとても良いです。「鐙」は金属でできていて、とても重いそうです。
「鞍」には、三浦氏の家紋ではない紋様が付いています。三浦義村のパーソナルマークかなにかなのか、詳細は分かりません。
この三浦義村愛用の馬具に触れると、麻疹(はしか)が治るという言い伝えがあります。
横須賀・根岸町にあった千片神社(1923年(大正12年)の関東大震災後、大津諏訪神社に合祀)は、神仏習合の時代だった江戸時代初期に、福寿寺から三浦義村の霊を勧請して創建されたと伝えられています。千片神社の周辺には三浦義村の館があったという伝承があります。千片神社は、主祭神として三浦義村を祀り、麻疹の神様として信仰されていたと言います。

西堀栄三郎・植村直己・多田雄幸各氏の顕彰の碑

本堂の横には、西堀栄三郎(登山家、理学博士)、植村直己(冒険家、登山家)、多田雄幸(ヨットマン)各氏の顕彰の碑が建っています。
福寿寺周辺の見どころ
剱崎方面へ足をのばせば、三浦半島南端独特のリアス海岸や、それに連なる崖や台地が広がっています。きっと三浦義村も、福寿寺に伝わる愛用の鞍と鐙を装備した馬で、この複雑な地形を駆け抜けていたのでしょう。
なお、細い農道が多く、駐車できる場所も限られているため、車でのアクセスはおすすめしません。







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