金沢文庫は、鎌倉時代に北条実時が設けた日本最古の武家文庫です。その後も、金沢北条氏・顕時、貞顕、貞将の三代に渡って、蔵書の充実がはかられていきました。
北条実時(金沢実時)は、金沢北条氏の実質初代で、鎌倉幕府第2代執権・北条義時は祖父にあたります。実時の父・北条実泰が、義時から現在の横浜市金沢区の所領を引き継ぎ、それ以降、金沢北条氏は鎌倉幕府滅亡までこの地を本拠地として治めていくことになります。
現在の金沢文庫は、鎌倉時代を中心とした中世の歴史博物館「神奈川県立 金沢文庫」として、お隣りにある称名寺に伝わる貴重な資料を中心に、展示・保管されています。
その一部は、神奈川県立金沢文庫の公式サイトより、「国宝 金沢文庫文書データベース」として、オンラインで閲覧することができます。
INDEX
北条実時私設の文庫からはじまった金沢文庫
金沢文庫を創設した北条実時は、第4代執権・北条経時や第5代執権・北条時頼を側近として支えるなど、鎌倉幕府の要職を歴任する一方、文化人としても知られていました。
実時は、鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣(九条頼嗣)に学問を講じていた儒学者・清原教隆に師事し、政治や漢文を学びました。また、叔父の北条政村からは和歌や日本の文化を学びました。そのような中で実時は多くの書物を収集し、なかには中国(当時の宋)から輸入された漢籍や仏典も多く含まれていました。
金沢文庫は、このような北条実時の収集本をもとに実時の私邸内に設立されたのがはじまりで、金沢北条氏・顕時、貞顕、貞将の三代に渡って、国内外の蔵書が収められていくことになりました。
しかし、鎌倉幕府の滅亡によって他の北条一門とともに金沢北条氏が滅んだ後は、金沢文庫は金沢北条氏の菩提寺であった称名寺の管理となりました。
室町時代以降、その称名寺も衰退が進んでいくと、金沢文庫の蔵書も散逸していくようになりました。
このような中、関東に移ってきた徳川家康によって、江戸城内の富士見亭文庫に金沢文庫の蔵書の一部を移されたことが、よく知られています。家康は、日本で最初の武家政権である鎌倉幕府を築いた源頼朝を崇拝していて、自らの本姓も源氏と称していたとされています。このような逸話は、金沢文庫には鎌倉幕府に関わる書物が多く所蔵されていたと考えられることからも、その信憑性が裏付けられていると言えます。
徳川家康の愛読書となった「吾妻鏡」の「金沢文庫本」
鎌倉幕府の公式な歴史書として有名な「吾妻鏡」も、現在までに伝わるものの大部分は金沢文庫に所蔵されていたものが元であるとされています。「吾妻鏡」は全巻そろって見ることができず、現存する巻も、年単位で欠落している箇所のあることが知られています。
この「吾妻鏡」の「金沢文庫本」が徳川家康の手に渡り、「金沢文庫本」以外の「吾妻鏡」からも増補されたものが、現在一般的に見られる、いわゆる「北条本」と称される「吾妻鏡」であるとみられています。
家康晩年の1605年(慶長10年)には、この「北条本」が京都の冨春堂から刊行され、一般庶民にも「吾妻鏡」が広まることになりました。
徳川家康は、この「吾妻鏡」から源頼朝が生きた鎌倉時代の歴史をひも解いて、わずか3代で滅んだ源氏将軍を反面教師に、15代におよぶ徳川将軍の時代の基礎を築くことができたのかもしれません。
なお、「金沢文庫本」自体も原本ではなく写本であったと見られていて、家康の手に渡る時点ですでに逸脱がはじまっていたようです。
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金沢文庫復興の歴史
鎌倉幕府滅亡から江戸時代まで冬の時代を迎えていた金沢文庫でしたが、明治時代に伊藤博文などによって復興すると、1930年(昭和5年)には神奈川県立金沢文庫として神奈川県で最初の県立図書館となりました。
戦後の1955年(昭和30年)、横浜市西区紅葉ケ丘に神奈川県立図書館が新設されると、金沢文庫は「図書館」としての役割を終え、県立博物館として再出発することになりました。
「金沢」の地名の由来
神奈川県立金沢文庫の初代文庫長・関靖氏の研究によると、金沢北条氏や金沢文庫などの名前の元になった、「金沢」の地名の由来は、鍛冶職人が移住して来たことによると言います。鎌倉に幕府が開かれると、源頼朝の有力御家人であった畠山重忠が、本拠地である武蔵国の秩父・金沢村から、鎌倉の隣接地であるこの地に鍛冶職人を呼び寄せ、そのときに地名も移住して来たとされます。
畠山重忠は武蔵国の有力な豪族で、武蔵国の最南端であった現在の横浜市金沢区にも領地があったとみられています。区内の釜利谷にある東光禅寺には、畠山重忠の供養塔が残されています。
金沢文庫と称名寺を結ぶ二本のトンネル
現在の金沢文庫がある場所と称名寺の間は、低い丘で隔てられています。その間はトンネルで結ばれていますが、そのすぐ隣には、中世の隧道(通行禁止)も残っています。
神奈川県立金沢文庫の表玄関は、車道沿いではなく、その裏側の、称名寺からのこのトンネルを抜けたところに設けられているのは、中世の金沢文庫に敬意を表わしているのかもしれません。