明王院は、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(九条頼経)によって、幕府の鬼門にあたる十二所に建立された寺院です。鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)が発願した寺院としては、鎌倉に現存する唯一の寺院です。
明王院は本尊に五大明王を祀っているため、「五大堂」とも呼ばれています。
江戸時代に発生した火事で、不動明王像を残して他の4体は焼失してしまいました。この不動明王像もまた、鎌倉幕府の将軍が発願した現存する唯一の仏像で、国の重要文化財に指定されています。
不動明王像以外の4体は後に再造されて、現在は「五大明王」がそろって祀られています。
山号 | 飯盛山 |
宗派 | 真言宗泉涌寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 五大明王 |
創建 | 1235年(嘉禎元年) |
開山 | 定豪 |
開基 | 藤原頼経 |
明王院は、将軍の祈願所として、源頼朝が創建した鎌倉の三大寺社である鶴岡八幡宮・永福寺・勝長寿院とならぶ、鎌倉幕府の重要な寺院でした。モンゴル帝国らに攻め込まれた元寇の際には、鎌倉幕府からの依頼で、明王院で元軍退散の法要が執り行われた記録が残っています。
明王院では毎月28日13時から、このような由緒のある護摩法要が執り行われていて、誰でも参列することができます。
INDEX
鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経
明王院の東側一帯には、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が建立した大慈寺という大寺院があったとされています。江戸時代にはすでに丈六堂(現存せず)というお堂が残るだけになっていて、全容はよく分かっていません。
藤原頼経は、源実朝が暗殺されて、源頼朝直系の源氏将軍が途絶えた後、京の公家(摂家)から迎えられた将軍です。
当時幕府の実権を握っていた執権北条氏(北条得宗家)は、はじめ、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしました。しかし、後鳥羽上皇がこれを拒否したため、摂家(摂政・関白に任じられる家柄。鎌倉時代では、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家のこと)から選ばれることになり、九条家から当時2歳だった三寅(後の頼経)が迎えられることになりました。頼経はまた、源頼朝と同じく父を源義朝、母を由良御前に持つ妹(または姉)・坊門姫の曾孫であり、頼朝の遠縁にあたるということからも、源氏将軍の後継に選ばれたとみられています。
幼い藤原頼経が元服するまでは、「尼将軍」と呼ばれた北条政子や執権の北条義時らが幕府の運営を担いました。北条政子と義時は、頼経が元服する直前に死没しますが、元服後も執権北条氏による執権政治は変わらず、源頼朝亡き後の源氏将軍と同じように、頼経が実権を握ることはありませんでした。
そんな藤原頼経ではありますが、京への上洛などを契機に官位が上がっていくのに比例するように、執権北条氏による執権政治に不満を持つ者が徐々に接近してくるようになります。執権北条氏はこのような流れがエスカレートしていくのを防ぐように、頼経を将軍の座から下ろし、やがて、その後も「大殿」として鎌倉に留まっていた頼経は鎌倉から追放されて京へ送還されてしまいました、
この騒動の後、藤原頼経側についていて、長く幕府内で北条氏に次ぐ勢力を持っていた三浦一族も、執権北条氏らによって滅ぼされてしまうことになります。これにより、鎌倉幕府創設以来続いてきた執権北条氏による有力御家人の排除(執権北条氏の立場からすれば、有力御家人による反乱)は一段落つくことになります。
大江広元とゆかりの深い明王院
明王院の北側または西側には、鎌倉幕府初期の有力御家人・梶原景時の屋敷があったとされています。ここには、鎌倉時代初期には大行寺(後の大巧寺)がありましたが、後に若宮大路の二の鳥居近くに移っています。
梶原景時は、鎌倉時代初期の1200年(正治2年)には失脚し、殺害されてしまいます。これが、三浦一族の滅亡まで続くことになる、執権北条氏による有力御家人の排除のはじまりとされています。
明王院の南側には、やはり鎌倉幕府初期の有力御家人・大江広元の屋敷があったとされています。
大江広元の墓は明王院の裏山にあり、明王院の脇から天園ハイキングコースへ続く山道より向かうことができます。
また、明王院の近くに鎮座する、大江広元を祀る大江稲荷の御神体は、普段は明王院に安置されています。この御神体は、毎年2月に、初午祭が執り行われるときだけ大江稲荷に移されて、御開帳されます。
明王院自体も、大江広元の四男・毛利季光の領地だった場所に建立されたという経緯があり、明王院は大江広元とゆかりの深い寺院でもあります。
毛利季光の領地の前身は、梶原景時の屋敷や大行寺の旧跡だった可能性も考えられます。その場合、鎌倉時代前期の30~40年の間に、目まぐるしく土地の来歴が移り変わっていることになり、源頼朝亡き後の激動の時代の縮図のような場所という見方もできます。
明王院周辺の見どころ
明王院は、江戸時代後期の1838年(天保9年)に、十二所村の鎮守・十二所神社を現在地に再建しています。十二所神社は、明治初期までは明王院が管理していました。
明王院が建立される際に、明王院の東に神社も創建された記録が残っています。明王院の東側に現存する神社としては、十二所神社と大江稲荷があります。また、十二所神社にはいくつかの境内社も存在します。これらのいずれかの前身が、明王院と同時に創建された神社だったという可能性も考えられます。(参考までに、明王院の創建が1235年、十二所神社の創建は1278年、大江稲荷の創建は不詳)