住吉神社は、古くは「栗浜大明神」や「栗浜明神」と呼ばれた、久里浜の海岸沿いに鎮座する古社です。
平安時代から鎌倉時代にかけて三浦半島を領地としていた三浦一族は、怒田城など、久里浜周辺に水軍の基地を持っていたと考えられています。現在も全国の住吉神社の多くが航海の守護神を祀るように、「栗浜大明神」も、航海の守護神として三浦一族からあつい信仰を集めていたのでしょう。
また、久里浜は、三浦一族の本拠地があった衣笠城方面に続く、平作川の河口にあたります。
平安時代末期、源頼朝による平家討伐の挙兵に呼応するように、三浦一族も源氏方として挙兵します。平家方に追い込まれ、劣勢になった際も、三浦一族の三浦義澄らが「栗浜大明神」へ祈願に訪れ、久里浜から舟で東京湾に逃れています。
主祭神 | 中筒男命 金山彦命 表筒男命 天照皇大神 素戔嗚命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 不詳(鎌倉時代以前) |
祭礼 | 7月最終日曜 例祭 11月下旬日曜 新嘗祭 3月上旬日曜 祈年祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
幕末にペリー一行が上陸した久里浜海岸は、昭和初期までは、住吉神社があるあたりまで砂浜が続いていました。しかし、戦前・戦中に横須賀軍港の副港としての整備にはじまり、戦後も遠洋漁業の基地や缶詰工場(閉鎖済み)や東京湾フェリーのターミナル、火力発電所が整備されるなど、住吉神社だけが久里浜港周辺の開発にポツンと取り残されるように鎮座しています。
INDEX
源頼朝らも参詣する三浦半島を代表する神社だった栗浜大明神
1917年(大正6年)に発行された「久里浜村誌」によると、住吉神社境内には旗掛松と呼ばれる老松があったとのことですが、今はもう見られません。この旗掛松は、三浦一族が舟で房総半島に逃れる際に旗を掲げたことに由来すると言います。
「栗浜大明神」のご加護もあったのでしょう、無事、対岸の房総半島に上陸した三浦一族は、源頼朝らと合流して、戦力を立て直しつつ鎌倉入りを果たし、鎌倉幕府の創設に大きな貢献をすることになります。
1182年(寿永元年)、源頼朝とその妻・北条政子の間に源頼家が産まれると、鶴岡八幡宮や三浦十二天(芦名の十二所神社)などとともに、栗浜大明神へ神馬が奉納されています。
また、1185年(文治元年)には源頼朝が、1195年(建久6年)には源頼家が参詣するなど、源氏将軍もたびたび、直接、栗浜大明神を訪れていて、栗浜大明神は三浦半島を代表する神社の一つだったことがうかがい知れます。
古くから久里浜や三浦半島の中心の一つだった住吉神社周辺
「住吉神社」は全国各地で見られる神社ですが、西日本に多く、三浦半島を含む関東ではそれほど多く見られません。住吉神社は航海の守護神を祀る代表的な神社として知られていますが、貿易や海運が西日本から発展していった日本の歴史を考えれば、不思議なことではありません。
現在は周辺が埋め立てられて内陸にありますが、昭和初期までの住吉神社は、当時は海水浴場として賑わっていた久里浜海岸の南端に位置する、小さな岬のような場所に鎮座していました。
かつては住吉神社の裏にも福作海岸と呼ばれた海岸が広がっていて、その内陸にはこんぴら山と呼ばれる山がありました(現在も火力発電所内に一部が現存)。こんぴら山の山頂には琴平社(金毘羅神社)がありましたが、明治期に住吉神社に合祀されています。
金毘羅様(金毘羅権現)を祀る神社もまた、関東にはそこまで多くはなく(三浦半島には小さな社が点在しています)、この辺りが古くから海を通じて西日本など全国各地とつながっていたことを物語っています。
江戸時代に入るまでの久里浜は、今よりも海が内陸に大きく入り込んでいて、現在の久里浜の中心地の大部分は、入り江か湿地帯でした。そんななかで、久里浜湾の南岸に位置していた住吉神社周辺には古くから集落があったと考えられています。かつては、住吉神社周辺が、久里浜の中心地の一つでした。
その根拠の一つとして、こんぴら山には前方後円墳(現存せず)があったと考えられています。久里浜湾北岸の大塚山古墳群にも、前方後円墳がありました。久里浜エリアは三浦半島のなかでももっとも多くの古墳やその時代の遺跡が見られる集積地で、三浦半島を代表する豪族が治めていた要所であったと見られます。
住吉神社(栗浜大明神)、あるいはその前身の社も、このような歴史の中で、海を通じた交易によって生まれ、発展していったのでしょう。