和田八雲神社の境内に建つ「和田義盛の碑」は、鎌倉で非業の最期を遂げた義盛をしのんで、1921年(大正10年)、義盛の居館(屋敷)があったとされる場所の近辺に建立されたものです。和田義盛は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将で、この碑が建つ、現在の三浦市初声町和田を本拠地としていました。
この碑に書かれた『和田義盛旧里碑』という文字は、三浦一族の末裔とされる紀州藩家老の子孫・三浦英太郎男爵の筆によるものです。
INDEX
愛されキャラの和田義盛
三浦英太郎男爵は、和田義盛や和田氏の直系の子孫ではなく、宝治合戦で三浦氏宗家(本家)が滅んだ後に三浦氏(相模三浦氏)を再興した、佐原氏の子孫にあたります。
数多い祖先の中から、直系ではない和田義盛を選んだのは、相当な思い入れがあってのことだったのでしょう。
義盛の従兄弟である三浦義村が知略にたけて、その生涯をまっとうしたのとは対照的に、和田義盛は感情にまかせて行動するタイプだったようで、時の執権・北条義時の挑発を受けて挙兵し、敗死してしまいました。
しかし、和田義盛の人となりは鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」などからしか知ることはできませんが、平家討伐の遠征の最中にひそかに鎌倉に帰ろうとしたことを「吾妻鏡」に一人名指しで書かれたり、晩年になって一生のお願いとばかりに上総国司の職を望んでみたり、和田氏の長として子息の許しを必死に請うたり、その実直さは、当時の歴代の鎌倉殿にとっても、後世の末裔や郷土の住民にとっても、愛すべき存在であったことは確かなようです。
牛頭天王を祀る和田の里の鎮守として創建された和田八雲神社
和田八雲神社は、もともと牛頭天王社とも言い、牛頭天王を祀る和田の里の鎮守として創建されました。
牛頭天王はインド・祇園精舎の守護神で、神仏習合の神です。そのため、明治期の神仏分離により、主祭神は牛頭天王と習合していた素盞嗚尊(須佐之男命)となっています。
主祭神 | 素盞嗚尊(須佐之男命) |
旧社格等 | ― |
創建 | 1687年(貞享4年) |
和田義盛の碑・和田八雲神社周辺の見どころ
以下のリンク先からその他の【和田義盛ゆかりの地】もご覧ください