横須賀海軍施設ドックは、横須賀製鉄所を前身に持つ、在日米海軍と海上自衛隊の艦船を修理するための施設です。ヴェルニー公園対岸の、米海軍横須賀基地(通称:ベース)内に位置しています。
横須賀製鉄所は、当時、江戸幕府の勘定奉行だった小栗忠順(小栗上野介)の進言により、幕末の1865年(慶応元年)にフランス人技師レオンス・ヴェルニーを首長に招いて、建設が開始されました。明治維新によって新政府に接収された後の1871年(明治4年)に、1号ドックが完成しました。同じ年に、横須賀製鉄所から横須賀造船所に改称されて、1884年(明治17年)には旧日本海軍・横須賀鎮守府直轄の横須賀海軍工廠となりました。(横須賀製鉄所も、横須賀海軍工廠も、いわゆる「造船所」のことです)
その後、横須賀製鉄所では、昭和前期までに6基のドライドックが造られ、その後、日本が世界屈指の造船大国となる一翼を担いました。
戦後は米海軍に接収され、横須賀海軍施設ドックとして、米海軍と海上自衛隊の艦船を修理するための施設となりました。
横須賀海軍施設ドックでは、2022年現在も、明治期から昭和前期までに造られた6基のドライドックすべてが、現役で使用されています。これらの6基のドライドックは、日本遺産「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」に認定されています。
とくに、明治前期に完成した1号~3号ドックは現存する日本最古の石造りのドライドック群で、当時最先端の西洋技術が導入されて建造された、貴重な近代化遺産です。
INDEX
横須賀製鉄所1~3号ドックの建設と黌舎での学び
1871年(明治4年)に完成した1号ドックに続いて、1874年(明治7年)に3号ドック、1884年(明治17年)には2号ドックが完成しました。
1号ドックと3号ドックはフランス人技術者が中心となって建設されましたが、この中で1番最後に完成した2号ドックが造られる頃には、日本人が中心となっていました(2号ドックの「設計」はフランス人による)。
1876年(明治9年)にはヴェルニーが退任し帰国するなど、フランス人技術者の数が減っていたこともありますが、横須賀製鉄所では開設当初より人材教育が積極的に行われてきており、その成果と言えます。
「黌舎」と呼ばれたこの技術者養成学校では、フランス人技術者を講師に、造船学や機械学と言った技術の他、フランス語などを学ぶことができ、日本の近代化を支えることになる多くの人材を輩出しました。
この「黌舎」の卒業生の一人・恒川柳作は、呉や佐世保の旧日本海軍のドックの他、民営としては日本最古の石造りドライドックである旧横浜船渠第二号船渠(現在の横浜みなとみらいのドックヤードガーデン)や石川島造船所浦賀分工場船渠(通称:川間ドック)など、明治から大正に建設された多くのドライドックに関わっています。
浦賀船渠(通称:浦賀ドック、後の住友重機械工業浦賀工場)の建設に携わった杉浦栄次郎も、横須賀製鉄所(横須賀造船所)で技術を学んだ一人でした。
ナウマンゾウの化石と150年以上も現役の理由
横須賀海軍施設ドック(旧横須賀製鉄所)1号~3号ドックは、ヴェルニー公園のコースカ ベイサイド ストアーズ寄りから、公園の対岸に見える場所にあります。向かって右側から、1号ドック、2号ドック、3号ドックです。
これらの施設が横須賀に造られることになったのは、現在もフランス海軍の地中海艦隊司令部が置かれているトゥーロン軍港に地形が似ているためと言われています。
明治初期に完成したドライドックが、150年以上も現役で使用されている理由として、設計も施工も含めた、当時の技術力の高さに加えて、強固な地盤のうえに造られたということが挙げられます。
横須賀製鉄所のドライドックが建設される前、かつて、この場所には白仙山という山がありました。ドライドックは、この山を切り崩して、さらにその下の岩盤を掘り込んで造られました。
その際、この土の中から大きな動物の化石が発見されました。この化石は、東京帝国大学(現在の東京大学)のドイツ人の教授ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究され、絶滅したゾウの一種の化石であることが報告されました。横須賀ではじめて発見され、後に「ナウマンゾウ」と名付けられたこのゾウの化石は、横須賀市自然・人文博物館でレプリカを見ることができます(実物は国立科学博物館と学習院中等科・高等科に収蔵)。大昔の岩盤から見つかったこの横須賀での大発見は、横須賀製鉄所のドライドックの建設が、いかに、前例のない大工事だったかということも裏付けています。
艦船の大型化に対応した4~6号ドック
横須賀海軍工廠となった明治後期から大正前期にかけて、軍艦の大型化に対応した、4号ドックと5号ドックが造られました。
4号、5号ドックは、ヴェルニー公園のJR横須賀駅寄りにあるヴェルニー記念館の前から見えます。向かって右側から、4号ドック、5号ドックです。
その後、世界最大の戦艦「大和型」に対応する大型ドックが必要となり、6号ドックが1940年(昭和15年)に完成しました。6号ドックでは、完成と同時に空母「信濃」(起工当初は大和型戦艦として建造され、その後空母に変更)の建造が開始されました。
横須賀海軍施設ドックの4号、5号ドックは現在の米海軍の駆逐艦などが、6号ドックは米海軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」が入渠できる大きさがあります。
横須賀製鉄所建設の経緯
ペリー来航の衝撃
江戸時代の日本は、幕府設立初期より、いわゆる鎖国政策の一環として発令された大船建造の禁(大船建造禁止令)によって、大型船の建造や保有が制限されていました。
しかし、江戸時代後期になってくると、通商を求める外国船が日本沿岸に頻繁に現われるようになってきました。とくに、1853年(嘉永6年)に黒船艦隊(アメリカ海軍東インド艦隊)を率いてペリーが浦賀に来航し、久里浜(浦賀も久里浜も、現在の神奈川県横須賀市)への上陸を認めることになった出来事は、黒煙を上げて走る大型の蒸気船や最新の大砲といった近代的な文明を見せつけられるかたちとなり、本格的な海軍を持たない幕府を大いに慌てさせました。
このときの江戸幕府の対応は迅速で、ペリー来航の数か月後には、浦賀奉行所に「鳳凰丸」、水戸藩に「旭日丸」といった、西洋式の軍艦(帆船)の建造を命じ、「鳳凰丸」は翌年、「旭日丸」は2年後に竣工しました。また、幕府は、これと前後するように、大船建造の禁も解きました。ペリー来航の直前には、薩摩藩から幕府に西洋式の軍艦の建造を願い出ていて、ペリー来航以前から、有力諸藩の間では西洋式軍艦建造に向けた研究が進んでいたと考えられます。
「鳳凰丸」は浦賀湾に浦賀造船所、「旭日丸」は江戸の隅田川河口に石川島造船所を整備して、建造されました。浦賀造船所は、明治後期に完成する浦賀船渠(通称:浦賀ドック、後の住友重機械工業浦賀工場)とは別の施設で、浦賀湾の奥に簡易的に設けられた造船所でした。石川島造船所は明治前期に民間に払い下げられ、東京石川島造船所(後の、石川島播磨重工業、IHI)として発展していくことになります。
オランダの支援を受けた長崎製鉄所
江戸幕府は、ペリーの最初の来航から2年後の1855年(安政2年)には、長崎に海軍士官養成のための長崎海軍伝習所に開き、1861年(文久元年)には長崎製鉄所(後の、長崎造船所、三菱重工業長崎造船所)が完成しました。
鎖国政策の間、長崎の出島でヨーロッパ諸国では唯一交流があったオランダとの関係から、長崎製鉄所や長崎海軍伝習所はオランダ海軍の支援を受けて、建設・運営されました。
しかし、長崎製鉄所は規模が小さく、江戸からも遠かったため、幕府は江戸近郊に本格的な造船所を新規に建設することになります。1865年(慶応元年)に建設がはじまった横須賀製鉄所では、オランダ海軍ではなく、フランス海軍の支援を受けることになりました。
小栗忠順とヴェルニーの邂逅
ペリー来航以来、江戸幕府は海外から多くの中古船や新造船を購入しましたが、粗悪な船が多かったことに加え、幕府の運用も不慣れであったため、より大規模で、確かな技術力で船を整備・修理する施設が求められるようになってきました。
このような背景の中、遣米使節としてアメリカ海軍の造船所を見学した経験を持つ小栗忠順は、帰国後、近代的な造船所の建設を幕府に進言し、小栗主導の下、その具体的な計画を進めていくことになります。
この計画を進めるにあたり、幕府の協力相手としてフランス海軍が選ばれた背景には、以下のとおり、いくつかの要因があります。
・他の列強諸国に比べて東洋への進出が遅れていたフランスが、江戸幕府への協力に積極的だった。
・一方、他の列強諸国は、内部事情によって積極的に動けなかった。アメリカは南北戦争(1861年~1865年、アメリカ国内での内戦)のため、海外に投資する余裕がなかった。イギリスは、下関戦争(1864年、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ四国の連合軍による戦闘)をめぐって本国政府との対日政策の方針の違いによって、最終的に駐日公使が更迭となる。
・幕府の輸送船「翔鶴丸」の修理を横浜港に寄港中だったフランス海軍に依頼し、それが完ぺきな修理内容だったという実績があったため。
・小栗忠順と駐日フランス公使レオン・ロッシュを、後に幕府の外国奉行となる栗本鋤雲が仲介したため。小栗と栗本は、朱子学者・安積艮斎の私塾「見山楼」で同窓だった仲で、盟友と呼べる間柄。栗本とロッシュは、栗本が箱館奉行だった時に後にロッシュの通訳となるメルメ・カションと面識があり、カションを通じてロッシュとも親しくしていた。
このようにして、小栗からの協力の依頼を受けた駐日フランス公使ロッシュは、当時横浜に駐在していたフランス海軍のバンジャマン・ジョレス提督の紹介で、中国にいた技師レオンス・ヴェルニーを呼び寄せます。
100年以上使用されたオランダ製スチームハンマー
横須賀製鉄所では、船の建造や修理に必要な鉄の加工はもちろんのこと、当時の日本には、ネジやくぎなどを加工する工場もなかったため、そのような部品から作る必要がありました。このような鉄の加工に用いられたのが、蒸気の力で大きな金属のハンマーを上下させて金属を加工するスチームハンマーです。
横須賀製鉄所があった場所の対岸に位置するヴェルニー公園内のヴェルニー記念館では、1865年(慶応元年)にオランダで製造されて日本に輸入され、横須賀製鉄所の創設から100年以上使用された2基のスチームハンマーが展示されています。これらのスチームハンマーは、現存する日本最古のスチームハンマーで、国の重要文化財に指定されています。
フランス人はこの施設のことを、フランス語で海軍の造船所を意味する「arsenal」と呼んでいたと言います。当時の日本人はこれを「製鉄所」と訳しました。後年、一般的には鉄鉱石から鉄を取り出して鉄鋼製品を作る施設のことを「製鉄所」と呼ぶようになりましたが、当時は鉄を加工する施設という意味で使われました。
実際に、横須賀製鉄所は、船の建造や修理を行う「造船所」を中心とした施設ではありましたが、鉄を扱う総合工場でした。
なお、イギリス(イングランド)のプレミアリーグのサッカーチーム「アーセナル(Arsenal FC)」は、軍需工場の労働者のクラブチームがはじまりだったことに由来します。
その英語の「arsenal」も、フランス語の「arsenal」も、アラビア語に由来しています。
ヴェルニーによって敷設された横須賀の近代水道
鉄の加工をはじめ、製鉄所では大量の水が必要でした。そこで、ヴェルニーは、横須賀製鉄所(当時は、横須賀造船所に改称後)から南東に7kmほど離れた場所にある走水に水道施設を建設して、湧水を送水する水道を敷設しました。
この走水水源地と走水水道は、後に海軍が相模川水系の中津川を水源とする半原系統を利用するようになってからは横須賀市に無償で払い下げられ、横須賀市民向けの上水道として発展していきました。
現在、走水水源地周辺は走水水源地公園として整備されています。公園の駐車場では、「ヴェルニーの水」と名付けられた湧水を、無料で汲み取ることができます。
観音埼灯台や富岡製糸場で使用された横須賀製鉄所製レンガ
横須賀製鉄所の建物の多くは、耐火性のあるレンガを使用して建築されました。レンガもまた、当時の日本ではほとんど作られていなかったため、横須賀製鉄所で製造されることになりました。
横須賀製鉄所やその後継施設となる横須賀造船所で製造されたレンガは、明治期に日本の近代化に貢献した多くの施設で利用されました。日本で最初の洋式灯台となった観音埼灯台(初点灯:1869年(明治2年))や、同じく5番目の洋式灯台の城ヶ島灯台(初点灯:1870年(明治3年))など、開国初期に建てられた東京湾周辺の多くの灯台は、横須賀製鉄所製のレンガが使用されました(いずれも初代の灯台)。これらの灯台は、ヴェルニーが部下である灯台技師ルイ・フェリックス・フロランに設計・建造させました。
また、世界遺産に登録された富岡製糸場の建設にも、横須賀製鉄所(横須賀造船所)製のレンガが使用されました。
ヴェルニー公園に復元されたティボディエ邸
横須賀製鉄所製のレンガは、横須賀市自然・人文博物館で見ることができる他、ヴェルニー公園内のよこすか近代遺産ミュージアム・ティボディエ邸で、当時の木骨レンガ壁の一部がそのまま展示されています。
ティボディエ邸は、1869年(明治2年)頃に建築された、横須賀製鉄所の副首長を務めたジュール・セザール・クロード・ティボディエの官舎だった建物で、老朽化のため2003年に解体されるまでは本州最古級の西洋館(洋風建築)でした。ティボディエ邸は、戦後、米海軍横須賀基地の敷地になったため、近年までその存在が知られていませんでした。そのため、本州最古級の西洋館ということが分かったのも、解体される直前のことでした。
ティボディエ邸は、当時、現存する横須賀製鉄所時代の唯一の建築物であると考えられたため、解体されるにあたって、調査と部材保管が行われました。その後、しばらく日の目を見ることはありませんでしたが、2021年5月に、旧横須賀製鉄所の敷地を望むヴェルニー公園内に場所を移して、復元されました。残念ながら、多くの部材は当時のものではありませんが、特徴的なトラスや木骨レンガ壁の一部などは、当時のままの姿を見ることができます。