旧海軍通信学校地下壕は、横須賀・久比里にある陸上自衛隊久里浜駐屯地周囲の山中に残る、全長約2,000mにもおよぶ地下施設です。第二次世界大戦の終戦直後からその存在は知られていましたが、史料が残されていないため、築造された時期や目的が分からない、謎に包まれた施設です。
この地下壕の呼び名にもなっているとおり、終戦までこの地には海軍通信学校がありました。そのため、空襲を避ける目的の防空壕(防空退避壕)であったと考えられています。
久里浜地区には、海軍通信学校の他にも、現在の久里浜に海軍工作学校や海軍久里浜防備隊、久里浜から神明町にかけて海軍軍需部倉庫、長瀬に海軍対潜学校といったように、海軍の施設が数多く置かれていました。久里浜は横須賀で最大の平野が広がる地域のため、山に隣接していない施設もありましたので、海軍通信学校だけに留まらずこれらの施設全般の防空施設として築かれた可能性も考えられます。
このうちの海軍工作学校では、陣地構築などの設営術も学ばれていました。実戦的な防空壕としてなのか、演習の一環としてなのか、その目的は分かりませんが、海軍工作学校によって築造された可能性も考えられそうです。
あるいは、もともと海軍工作学校が演習で築造していた地下壕を、終戦間近に現実味を帯びてきた本土決戦に備え拡張して、防空壕にしたということもあり得そうですが、史料が残されていない以上、推測の域を出ることはありません。
旧海軍通信学校地下壕では4か所の地下壕が確認されています。その入口のほとんどは土砂で埋まってしまっています。
このうちの、出入口付近の安全が確認されている箇所を利用して、陸上自衛隊久里浜駐屯地の広報の方による丁寧な解説付きの、地下壕見学ツアー(事前予約制)が開催されています。
陸上自衛隊久里浜駐屯地では、資料館や記念碑などを見学できる駐屯地の見学会や、年に3回程度イベントによる一般開放も行っていますが、2026年春現在、地下壕を見学することができるのは、専用の地下壕見学ツアーのみです。※この記事の写真も地下壕見学ツアー(桜と地下壕見学ツアー)で撮影したものです。

海岸方面に山中を貫通している箇所も確認できる地下道路地図

旧海軍通信学校地下壕は、戦後の1951年(昭和26年)に調査が行われて、「地下道路地図」が作成されました(陸上自衛隊久里浜駐屯地の歴史館で展示中)。この史料によると、約30か所の地下壕出入口が確認されましたが、この時点ですでにその半数程度が進入できない状態になっていたことが分かります。
おそらく、終戦近くの突貫工事による簡易的な造りだったため、劣化も早かったのでしょう。
「地下道路地図」によれば、旧海軍通信学校地下壕は、基本的には行き止まりの構造になっています。4か所ある地下壕の中で最大の規模をほこる地下壕であり、現在、見学ツアーで一部を見学できるA地区と呼ばれる施設は、例外的に、海軍通信学校の敷地から、海軍対潜学校のあった長瀬海岸方面まで山中を貫通している地下道がみられます。
海軍対潜学校(近くに山はあります)方面からの退避用、あるいは連絡用なのか、久里浜湾に米軍が上陸して来ることを想定した本土決戦に対応するための抜け道なのか、いろいろと想像は膨らみますが、確実なことは分かりません。
なお、このA地区の地下壕は延べ約1,200mの全長をほこり、旧日本軍が築造した防空壕のなかでも屈指の規模のものとされています。
見学ツアーで体験できる旧海軍通信学校地下壕内部の様子

旧海軍通信学校地下壕内部は、主要路の高さが約170cm~180cm程度、幅が約2m程度の、大人は少しかがんで歩かなければならない、小型のトンネルです(とくに地下壕見学ツアーではヘルメットを着用するため、まっすぐ立つと大人の方の多くは天井に頭をぶつけてしまう恐れがあります)。主にツルハシによる人力の掘削とみられているため、壁面にはその素掘りの跡が生々しく残っています。
天井からは無数の鍾乳石が垂れ下がっていて、第二次世界大戦からの時間経過を静かに刻んでいるようです。
天井の鍾乳石の合間には、木製や金属製の遺構もみられますが、その用途までは詳しく分かりません。
地下壕見学ツアーではライトで内部を照らしていただけますが、当然それがなければ地下壕内は真っ暗のため、照明用の配線はあったと考えられます。


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旧海軍通信学校地下壕(陸上自衛隊久里浜駐屯地)周辺の見どころ









三浦半島の自衛隊・米軍関連施設











