仮粧坂は、鎌倉の扇ガ谷と現在の源氏山公園を結ぶ古道です。「化粧坂」や「化粧坂切通し」と表現される場合もあります。「仮粧坂」も「化粧坂」も、読み方は「けはいざか(けわいざか)」です。「鎌倉七口(鎌倉七切通)」の一つに数えられていて、国の史跡に指定されています。
仮粧坂(化粧坂)の名前の由来は、討ち取った平家の武将の首をここで化粧をしたからとか、この辺りに化粧をした遊女がいたからとか、諸説あります。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では「気和飛坂」と表記されています。
いずれにしましても、どれか一つが答えというわけではなく、鎌倉の入口として、さまざまな意味合いを持つ場所であったことは間違いありません。
INDEX
新田義貞の鎌倉攻めにも使われた中世のメインストリート
この仮粧坂(化粧坂)は、中世には、武蔵国やさらに北方へ向かう際の主要路であったと考えられています(中世の鎌倉街道・上道、武蔵大路)。
鎌倉幕府滅亡の決定打となった新田義貞の鎌倉攻めでは、当初、新田軍の主力が仮粧坂から鎌倉へ攻め入ろうとして、現在の源氏山公園がある葛原岡一帯は激戦地となりました。仮粧坂の下に位置する扇ガ谷の海蔵寺も、この戦いの中で、当時の七堂伽藍が焼失したと伝えられています。しかし、幕府軍の守りが固かったため突破できず、最終的には海側の稲村ヶ崎から攻略することになったと言われています。
仮粧坂が、交通の要衝であると同時に、防衛上も重要な場所であったことがうかがえるエピソードです。
仮粧坂は他の「鎌倉七口」と異なり、近代になってからも同じルート上に幹線道路ができることもなくひっそりとしていて、「鎌倉七口」の中でも古道の姿をとどめている切通の一つとされています。
扇ガ谷と現在の源氏山公園を結ぶ道は、寿福寺の脇の坂道など、複数あり、どれが中世の仮粧坂であったかは、はっきりとしていません。
現在残る鎌倉七口の中でもっとも急峻な坂道
短いながらも、仮粧坂の細く急な坂道からは、ここが中世の幹線道路であったとはなかなか想像し難いものがありますが、土木技術が乏しい時代にはこれでも通りやすい道であったのでしょう。
仮粧坂の坂上ではモミジが化粧をして迎えてくれる
仮粧坂の上にある源氏山公園は紅葉の名所として知られています。ちょうど仮粧坂を登りきった場所にもモミジがあり、晩秋には木々が紅色に化粧をして迎えてくれます。