十二所神社は、明治初期まで「三浦十二天」や「十二天明神」と呼ばれていた、横須賀・芦名の鎮守です。
創建時期は不詳ですが、平安時代後期に三浦半島を治めていた三浦一族の当主・三浦大介義明の弟・為清の館が芦名にあり、その鎮守として祀られたのが十二所神社だと伝えられています。
1182年(寿永元年)には、源頼朝によって北条政子の安産祈願のために、伊豆山権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)など10社へ使者が派遣されましたが、その中の1社に三浦十二天も選ばれて、三浦一族の佐原十郎義連が派遣されました。
この2日後、後の源頼家が無事産まれると、鶴岡八幡宮や栗浜大明神(久里浜の住吉神社)などとともに、三浦十二天へも神馬が奉納されています。
主祭神 | 天神七代(国常立尊から7世代の神) 地神五代(天照大神から5世代の神) |
旧社格等 | - |
創建 | 不詳(平安時代後期以前) |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 2月第3日曜日 祈年祭 11月12日 例祭「湯立神楽」 12月31日 除夜祭 ※実際の日にちは年によって異なる場合があります |
三浦半島を代表する神社だった三浦十二天
北条政子の安産祈願では、鎌倉周辺の国を代表する神社(たとえば、現在の寒川神社にあたる相模国の相摸一宮や現在の玉前神社にあたる上総国の上総一宮など)へ使者が派遣さていることから、当時の十二所神社(三浦十二天)は三浦半島を代表する重要な神社の一つだったことがうかがい知れます。
十二所神社のすぐ下には、弘法大師が焚いた護摩の灰から作ったと伝えられる帯解子安地蔵が祀られています。このお地蔵様への参詣が北条政子の安産祈願の目的だったとも考えられます。
参道の正面から外れて配された社殿
十二所神社の参道は、相模湾に面した芦名漁港(佐島漁港芦名地区)近くの芦名海岸から続いています。鳥居をくぐって石段を登っていくと、社殿は正面ではなく、左側斜め前に鎮座しています。このような神社はたまに見かけますが、もちろんそれぞれに理由があってのことでしょう。
十二所神社の場合は、蘆名氏(芦名氏)を名乗った為清の館の鎮守として創建されたということから、この館を正面に見るように配されたということが考えられそうです。あるいは、夏至の日に社殿の後ろに太陽が沈んでいくことから、太陽信仰にもとづいているということも考えられます。