三浦義村は、鎌倉幕府創設に重要な役割を果たした三浦義澄の次男で、三浦一族の最盛期を築いた策士です。1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵した際に、衣笠城にたてこもり、自身の命と引き換えに義澄ら一族を頼朝のもとに向かわせて討ち死にした三浦大介義明は、義村の祖父にあたります。
幕府内の政変や内乱で命を落としていくことが多かった三浦一族の武将たちのなかで、三浦義村は執権北条氏と姻戚関係を持つなど常に主流派に属して、最後まで幕府の最有力の御家人としてその生涯を全うしました。
INDEX
三浦義村ゆかりの南向院跡に建つ二つの墓石
三浦義村の墓は、三浦市の金田海岸の近く、福寿寺の塔頭(子院)だった南向院跡にあります。墓の奥に進むと、八坂神社が建っています。
福寿寺は、義村が開基の臨済宗建長寺派の寺院です。南向院は義村の法名(戒名)で、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で倒壊して、廃寺となっています。
このとき、義村の墓も崖崩れによって海中に落ちて、倒壊してしまい、現在の墓はその後に建立されたものです。その傍らには、海中から拾い上げて積みなおして修復したという、五輪塔のような以前の墓も残されています。
江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記」(第五集・巻之百十二 三浦郡六)では「三浦駿河守義村墓」という名前で、「碑高七尺許」(≒約2.1m)と紹介されています。
復元された現在の五輪塔のような旧墓石はそこまで大きくはなく、本来はもっと立派な墓碑であったことがうかがい知れます。
三浦義村が同時に招いた一族の繁栄と衰退
三浦義村のエピソードとしてとくに有名なのは、和田義盛の乱(和田合戦)、源実朝の暗殺、承久の乱、の3つの事件でしょう。
和田義盛の乱(和田合戦)
三浦義村の従兄で、幕府の有力な御家人であった和田義盛とその一族が打倒・北条氏を掲げて兵をあげた際には、直前で同じ三浦一族である和田氏を裏切り、時の執権・北条義時の側について、和田一族を滅亡へと追いやりました。
和田義盛は、鎌倉幕府創設当初から東国の御家人を統率する侍所別当という重要な役職につき、源頼朝の死後も、第2代将軍・頼家を支える「十三人の合議制」のメンバーになった、三浦一族の宗家(本家)である三浦義澄・義村親子と肩を並べるかそれ以上の権力を持つ存在でした。
三浦義村が和田義盛を裏切った理由には諸説あります。もっとも知られているのは、義村が執権北条氏と姻戚関係にあったからというものです。三浦義村の娘(後の矢部禅尼)は北条義時の嫡男・泰時に嫁いでいます。
他にも、三浦一族内での二人の主導権争いが原因であったことも考えられます。和田義盛の父・杉本義宗は義盛や三浦義村の二代前の三浦宗家当主・義明の長男(嫡男)でした。しかし、杉本義宗は三浦宗家の家督を継がず、杉本氏を名乗り、早くに戦死してしまいます。結果的に、次男である義村の父・三浦義澄が家督を継ぎます。さらにそれが義村に引き継がれていきますが、本来の本家筋である和田義盛との間に遺恨のようなものがあった可能性もあります。
後に三浦義村は、同族の和田一族を滅亡させたこの出来事を受けて、千葉胤綱から「三浦の犬は友をくらう」とののしられたと言われ、当時の幕府御家人の義村のイメージは現在のそれとあまり変わらないものがあったようです。
源実朝の暗殺
鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)源実朝が公暁に暗殺された事件では、三浦義村が黒幕だったという説があります。
公暁(幼名は善哉)は、第2代将軍(鎌倉殿)源頼家の次男または三男で、三浦義村が乳母夫になっていました。実朝を排除すれば、次の将軍(鎌倉殿)の座は公暁が就く可能性が高く、そのようになっていたら義村は御家人の中でも最大の権力を握ることになっていたでしょう。
しかし、実際には、実朝殺害後に三浦義村を頼って逃げてきた公暁を、義村は討ち取っています。このことから、義村には、公暁を将軍に擁立しようとするような野心はなかったとも考えられます。
ただ、源実朝と同時に北条義時も暗殺する計画だったものが、義時の暗殺には失敗したことから、急きょ計画を変更して、公暁の口を封じ、時の執権である義時を含む幕府に忠義を尽くすように見せかけたということも考えられます。
いずれにしろ、三浦義村と三浦一族にとって戦略上重要な存在であったはずの源氏将軍家の生き残りである公暁を(駒の一つとしてしか見ていなかったとしても)、ここで失っています。
承久の乱
後鳥羽上皇が鎌倉幕府第2代執権・北条義時に対して兵をあげて、朝廷側が敗れた承久の乱では、弟である三浦胤義と対峙して、自害へと追いやっています。
三浦胤義は朝廷に仕える検非違使として京に上がっていて、承久の乱では朝廷側の武将の中心メンバーとなりました。これは、北条義時討伐の院宣を受ければ兄である義村もそれに従うだろうという打算もあってのことでしたが、実際には義村は胤義からの使者を追い返して、密書を北条義時に届けています。
結果的に承久の乱で三浦義村は北条氏と共闘して、幕府方の勝利の最大の功労者の一人になっています。歴史に「もし」は禁物と言われますが、このとき、義村が後鳥羽上皇側に付いていたら、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
三浦氏宗家の滅亡
三浦義村の代には、鎌倉幕府内で執権北条氏と肩を並べるほどの勢力となった三浦氏でしたが、義村の子・泰村の代で滅亡してしまいます。
三浦氏の栄華を極めた三浦義村でしたが、皮肉なことに、同族をも討ち続けたことによって一族の衰退も同時に招くことになり、義村の死後、勢力拡大を阻止したい北条氏と幕府内で権力を拡大していた安達氏の思惑が一致して、宝治合戦で三浦氏は敗北することになります。最期は、三浦一族が幕府創設前から仕えた源頼朝の法華堂(源頼朝の墓)で、三浦泰村とその一族500余名は自害して、滅亡しました。
三浦義村を御祭神として祀る近殿神社
三浦一族の本拠地だった衣笠城址の近くには、三浦義村を御祭神として祀る近殿神社があります。
近殿神社が総鎮守となっている大矢部周辺には、義村の祖父・義明の墓や父・義澄の墓、為通・為継・義継の三浦氏初代から第3代までの墓など、三浦一族ゆかりの場所が点在しています。
三浦義村関連の特集記事
三浦義村がどのような人物だったのか詳しく知りたい方は「三浦義村(三浦平六)とは?」を、三浦義村が残した足跡をたどりたい方は「三浦義村ゆかりの地」の記事もご覧ください。
三浦義村の盟友・北条義時については、「北条義時ゆかりの地」にまとめています。