お猿畠の大切岸は、現在の逗子市と鎌倉市の市境に沿って、長さ約800mに渡って続く崖地です。鎌倉側が崖の上部にあたり、逗子側は下部になります。崖の高さは、3m~10mあります。
お猿畠の大切岸のすぐ西側は名越切通が南北に走っていて、名越切通からお猿畠の大切岸の尾根道を北東へ進むと、衣張山や報国寺・浄妙寺、鎌倉逗子ハイランド方面へ抜けることができます。
「お猿畠」という地名は、1260年(文応元年)に日蓮が浄土宗信者によって襲撃された松葉ヶ谷法難の際、白猿にこの地へ導かれて難を逃れたとする伝承に由来します。お猿畠の大切岸のすぐ下に位置する法性寺は、山号を「猿畠山」と言い、日蓮が避難したと伝わる岩窟が残っています。
お猿畠の大切岸が築かれた目的
「切岸」とは、敵の侵入を防ぐために築いた人工的な崖のことで、お猿畠の大切岸も長い間、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために築かれた、あるいは、「鎌倉城」の遺構の一部という見方がされてきました。しかし、近年の発掘調査で、大規模な石切り場の跡であったことが分かっています。
鎌倉周辺の山で採石された「鎌倉石」は、比較的柔らかく加工がしやすかったため、鎌倉に幕府が置かれて以降、鎌倉のまちづくりには欠かせないものでした。
なお、1247年(宝治元年)の宝治合戦で執権北条氏によって三浦一族が滅ぼされるまで、鎌倉幕府と三浦一族は、少なくとも表向きは大きな衝突はなく、お猿畠の大切岸のような目に見えるかたちで挑発していたとは考えにくいです。
また、名越切通やお猿畠の大切岸周辺は、三浦一族が領地である現在の横須賀や三浦方面から幕府や幕府近くの屋敷がある鎌倉との行き来に、頻繁に利用していた、いわば三浦一族のために存在しているような道でもありました。
お猿畠の大切岸の見学ルート
お猿畠の大切岸に沿うように尾根道が続いていますが、切岸の上側を通るルートと下側を通るルートが並行して走っています。このうち、上側を通るルートを選択すると、お猿畠の大切岸は足元にありますので、全体像を見ることができません。お猿畠の大切岸を見たい場合は、下側のルート(名越切通や法性寺方面から入る場合は右ルート、衣張山や鎌倉逗子ハイランド方面から入る場合は左ルート)を選択するようにしましょう。