燈明堂は、1869年(明治2年)に日本初の洋式灯台として初点灯した観音埼灯台ができるまで、東京湾(浦賀水道)を航行する船舶の安全を支えた和式灯台です。1648年(慶安元年)に江戸幕府により建設されて、1872年(明治5年)に廃止されました。
200年以上にわたり、1日も休むことなく灯りを点しつづけた燈明堂は、日本の灯台の歴史上重要な存在です。
東京湾に突き出た岬にある燈明堂の足元には、磯遊びができる岩礁と、小さな砂浜が広がっています。この燈明堂海岸は、三浦半島ではめずらしい白砂のビーチで、東京湾側の海岸では水質もキレイです。
燈明堂海岸は海水浴場も開設されませんし、近くにお店もなく、知名度も高くありませんが、燈明堂緑地駐車場が隣接していることから車でのアクセスも悪くないため、地元民の憩いのビーチになっています。
燈明堂は、2001年、神奈川県によって、三浦半島八景の一つ「灯台(燈明堂)の帰帆」に選ばれています。
INDEX
復元された灯台史上重要な燈明堂
1603年に江戸幕府が創設されて、江戸湾(東京湾)を航行する船舶が飛躍的に増えたことを受けて、深い入り江となっている浦賀港は、風待ちの船が多く集まるようになりました。浦賀港は、近くに浦賀奉行所が置かれたこともあって、大きく発展して行きました。
これらの船舶の安全をはかるため、江戸幕府は浦賀港の入口にあたる岬に、燈明堂を建設しました。
このような経緯から、燈明堂は当初、江戸幕府が管理をしていましたが、1691年(元禄4年)からは東浦賀の干鰯問屋(ほしかどんや:鰯などを使った魚肥を扱った問屋)が経費を負担するようになりました。
燈明堂は、台風や地震、津波による被害で、何度も倒壊しては再建されました。
建物は明治20年代までは残っていましたが、風雨で崩壊してしまい、それからしばらくのあいだは建物を支える石垣だけが残されていました。現在の姿は1989年に復元されたものです。
燈明堂の復元にあたって、周囲は公園として整備されました。
江戸時代、燈明堂の近くには浦賀奉行所の処刑場があり、このあたりは「首切り場」と呼ばれていたため、供養塔も残されています。
かつては忌み嫌われていた場所ですが、三浦半島の東京湾側ではめずらしい、幹線道路に面していない静かな砂浜も残されていて、気軽に都会の喧騒を忘れさせてくれる場所としてオススメの一つです。
燈明堂海岸は東京湾要塞跡に残る隠れ家的ビーチ
三浦半島の東京湾側のとくに久里浜以北にはあまり自然の地形は残されていませんが、燈明堂があった燈明崎からその南にある千代ケ崎までの海岸は、観音崎周辺とともに、数少ない例外の一つです。
三浦半島のこのような場所は、明治時代以降に近くに軍事施設がおかれて人の出入りが制限されていて、第二次世界大戦後も自衛隊や米軍の関連施設になったり、市街地から遠く開発の手を免れたというような場所がほとんどです。
燈明堂海岸も例外ではなく、近くの平根山の上には、かつて千代ヶ崎砲台があり、周辺は東京湾要塞の一部でした。
2024年海水浴場 | × 燈明堂海岸は海水浴場ではありません |
2024年海の家開設 | × |
公衆トイレ | ○ |
駐車場 | ○ 燈明堂緑地駐車場(5:00~21:30) |
軍事施設が置かれたおかげで自然が残されているというのは、なんとも皮肉な話です。
悲惨な戦争体験のようなインパクトはありませんが、過去の過ちや平和のありがたみを静かに物語っているように思います。
目の前がビーチの燈明堂緑地駐車場
燈明堂海岸に隣接した場所には、燈明堂緑地駐車場(5:00~21:30)があります。駐車台数が29台と少ないため、GWや夏季のハイシーズンは、朝早い時間帯に満車になってしまう可能性が高いです。また、海岸に通じる道に一部狭い場所があるため、対向車には注意が必要です。
浦賀駅または京急久里浜駅からバスを利用した場合、最寄りのバス停「燈明堂入口」から燈明堂海岸までは徒歩約15分と少し歩くことになりますが、逆に、バス通りからたった15分でこんなに静かで美しい場所にたどり着けるのかと感じられるくらいステキなビーチに思えるかもしれません。
燈明堂跡&燈明堂海岸周辺の見どころ
2021年10月から、徒歩15分ほどの場所にある千代ヶ崎砲台跡が一般公開(土・日・祝日のみ)を開始しました。明治期のレンガ造の建造物が残る、貴重な文化遺産です。こちらもセットで訪れるのがオススメです。