芦名城は、平安時代後期に三浦半島を治めていた三浦一族の当主・三浦大介義明の弟にあたる蘆名為清(芦名為清)の居城です。三浦半島の相模湾側の、ちょうど真ん中あたりに位置しています。いつどこに、どのような規模で築かれたのかなど、詳細は不明です。
芦名城のあった芦名(現在の横須賀市芦名)には、御館や城山、大門といった、武家の城や館に由来すると考えられる地名(字、小名)が伝わっています。御館は現在の大楠小学校があるあたりで、その南側の小高い丘が城山と伝えられています。城山の南側には、少なくとも現在は小さな川ですが、芦名川が流れていて、300mほど下ると芦名漁港の近くで相模湾に注ぎます。
芦名漁港の近くには、為清の館の鎮守として祀られたと伝わる三浦十二天(十二所神社)が鎮座しています。
INDEX
芦名の地名に由来する蘆名氏
三浦一族は、平安時代後期、所領であった三浦半島各地に、当主の三浦義明の兄弟や子らを配して、統治を強固なものにしました。そして、三浦義明の嫡男・義宗は杉本氏(杉本城、杉本寺)、その子の義盛は和田氏(和田城)、義明の末子・義連は佐原氏(佐原城)といったように、館を築いた場所の地名を名字(姓)として名乗りました。
蘆名為清の蘆名姓もまた、蘆名(芦名)という地名に由来します。為清の子孫は三浦半島を出て、現在の伊勢原市にある石田を領して、石田姓を名乗りました。為清の孫・石田為久は、源頼朝と対立していた木曽義仲(源義仲)を、粟津の戦いで敗走するところを討ち取るという武功を挙げています。
また、戦国時代の武将・石田三成は三浦一族の蘆名氏の末裔と言われています(諸説あり)。
会津で栄えた会津蘆名氏
蘆名為清の館の鎮守・三浦十二天へは、1182年(寿永元年)、源頼朝によって北条政子の安産祈願のために、蘆名為清の甥にあたる佐原十郎義連が派遣されました。
源頼朝の信頼を得て鎌倉幕府創設に貢献した三浦一族でしたが、1247年(宝治元年)、執権北条氏によって滅ぼされてしまいます。しかし、佐原義連の子・盛連は北条氏と縁戚関係にあった三浦義村の娘・矢部禅尼と結婚していたため北条氏側に味方して生き残り、後に盛連の子・盛時が三浦氏(相模三浦氏)を再興することになります。
正確な時期は分かりませんが、鎌倉時代に入った後の芦名城はこの佐原氏の氏族の居城となっていたようで、佐原義連の子孫からは蘆名姓を名乗る者も現われました。
さらにその中には、佐原義連の時代に奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の功によって得ていた会津へ移り住むものも現われ、戦国時代には戦国大名の蘆名盛氏を輩出しています。
芦名城址庚申塔
芦名城があったと考えられている丘のふもとには、いくつかの庚申塔が建っています。芦名城は、地名が伝わる以外に城跡を示す遺構は現存せず、これらの庚申塔だけがこの辺りに武家の館があったことを示すかのように佇んでいます。